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11 お歯黒どぶ

墨東奇譚

 永井荷風の『濹東綺譚』は大正時代の東京の玉の井、いまでいう墨田区東向島あたりにあった私娼街を舞台にした小説である。私娼街とは政府非公認の遊郭のようなもので、昭和33年に法律で禁止されるまではそういうエリアが日本の各地にあったという。
 玉の井には「お歯黒どぶ」というドブが流れており、小説では夏の暑い夜に立ち込めるドブの臭気や蚊のうなる声が活写されている。「お歯黒どぶ」とは妙な名前であるが、ドブの水がお歯黒のように真っ黒だったことから付けられた名前のようである。
 水が真っ黒ということは、ドブの中で嫌気性細菌が硫化水素を発して真っ黒な硫化鉄混じりのヘドロを産出している状態だから、相当に汚染された状態といえる。私はこの「お歯黒どぶ」が気になった。

 気になったのは、同じ名前のドブが隅田川の川向こうにある吉原遊郭にもあったからである。
 吉原遊郭は江戸初期の1657年、幕府の許可を得て浅草寺の北方に設置された。広さは約9ha、長方形の独立した街区で、周囲を堀で巡らしてある。この堀が吉原の「お歯黒どぶ」で、いまは暗渠になっているがドブの護岸の跡などはわずかに見ることができる。

 なぜ遊郭(と私娼街)にはお歯黒どぶがあるのであろうか。
 私が吉原のお歯黒どぶを知るきっかけとなった時代小説からは、風紀上の理由から遊郭を周囲の街と切り離して管理するためといったような事情が窺えたが、それがどうして真っ黒なドブでないといけないのだろうか。例えば高い塀を巡らすといったことも考えられたはずだし、堀を作るにしても水を真っ黒にする必要はない。
 もしかするとお歯黒どぶは意図的に作られたのではなく、もともと遊郭というものが真っ黒なドブが生じてしまう地形的な要因を抱えているのではないか、私はそう考えた。

 濹東綺譚に出てくる玉の井は、隅田川東岸の水田地帯を埋め立てた歓楽街で、お歯黒どぶは水田の小川の成れの果てと考えられる。
 一方、吉原は浅草寺の北の湿地帯を埋め立てて作ったもので、吉原とは「葦の原」に通じる。遊郭は湿地帯に作られることが多く、吉原ができる前はいまの中央区日本橋人形町の低湿地帯にやはり吉原という遊郭があった。日本橋の吉原が浅草寺の北に移転したのは、江戸の市街地が拡大して日本橋が江戸の真ん中になってしまったからである。

 遊郭が低湿地帯にできるのは、次のような要因があると考えられる。
 ・風紀上、都心から離れた場所につくりたい。
 ・まとまった土地が必要である。
 ・住宅地から離れ、かつ住宅地に向かない土地でないと確保できない。
 これらを満たすのが低湿地帯を埋め立てた土地ということになる。
 湿地帯を埋め立てると、そこを流れていた水流を整理して排水路に仕立てる。しかしそれは地形的な要因でさらさらと流れずに澱み、ドブ川化する、このようなことではないだろうか。

 濹東綺譚の舞台となったあたりを歩くとドブ川こそないものの、路地裏をすりぬけて流れていたドブ川の跡を今でもあちこちで目にすることができる。ドブ川を暗渠にして作られた路地は、密集した古い住宅地をすり抜けて続き、この町に迷宮のような魅力を添えている。ドブ川が遊郭に付き物であることを荷風は知って頻繁に小説に登場させたのだろう。

(参考)
濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

図説 永井荷風 (ふくろうの本/日本の文化) 表紙裏の詳細な「玉の井概要図」で当時の様子が分かる。
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あとがき -私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか-

堀川堀川(京都市中京区)

 川沿いを歩くとよく、「川をきれいにしましょう」という看板が立っている。
 その看板はたいてい小学生によって書かれ、「汚れた川はあなたの心」のような道徳的なメッセージなども添えられて訴えかけてくる。しかし看板は「汚れた川=よくない」という価値判断でもってドブ川を否定するだけで、なぜ川が汚れるのかという本質的な部分には立ち入らない。
 大人も同じで、ドブ川を訪ね歩いてその中を覗き込むというようなことは、いい歳の人はしない。ドブ川がくさければ近づかないようにするなり、市役所に苦情を言うなりするまでである。

 しかしドブ川は直視してみると、心をほっとさせる要素があるように思える。またはわくわくさせる要素がある。私が胸を張ってそう言えるのは、谷崎潤一郎が著書『陰翳禮讃』でこう書いているのを見つけたからである。

「便所の匂ひには一種なつかしい甘い思ひ出が伴ふものである。(中略)さう云ふと可笑しいが、便所の匂ひには神経を沈静させる作用があるのではないかと思ふ。」

 谷崎潤一郎は便所の匂いがいかに風雅なものであるかを延々一章語るのであるが、これはドブ川についてもある程度当てはまると思う。大谷崎の考察には到底及ばないものの、私も考えてみた。なぜドブ川をみるとほっとしてしまうのか。

 ドブ川は、人間の排出した汚水が自然の中に放出されたときに行なわれる、還元の過程だからなのではないだろうか。
 現代人の生活は大量の汚水を生む。その代償として高い維持費の下水道で浄化しなければならないのであるが、浄化しきれない部分は自然の川が引き受ける。その時に人工的な排水が悪臭や汚泥を産みながら自然に還っていく過程、それがドブ川だからなのではないか。
 硫化水素やヘドロが出るのは忌避すべき状態だけれども、そのようにして曲がりなりにも人工的な汚水が自然界に還っていく仕組みが生態系に用意されている、そのことを確認できるからではないか。
 
 ドブ川を見て私が一番驚いたのは、強烈なにおいを発するヘドロだらけのドブ川にボラやオタマジャクシやカメが泳いでいるのをよく見かけたことである。ヘドロの上に白いベギアトアが広がり、その上をボラの群れがすいすいと泳いでいる。彼らはかなり劣悪な水質でも生きられるようである。
 反対に、よく整備されて浄化された下水処理水が放流される都市河川ではこれらは見かけなかった。
 また、都市河川でも手入れが悪くて泥がたまっていたり雑草が繁茂する川、例えば港区南麻布の古川などには魚の姿が見えた。生物は水の汚さにはかなりの程度適応できても、コンクリートで固められてしまうと生きる場を失ってしまうのかもしれない。このあたり、人間にとっての「よい川」と、生物にとっての「よい川」は異なるように思える。
 
 ドブ川は人間にとって不衛生で醜悪な存在であるが、生態系としては少しも異常ではない。発生する硫化水素や濁った水が人間にとってはよくないだけで、生態系サイドとしてみれば、汚水に適応した嫌気性細菌が分解を引き受けてそれなりの生態系を作るだけの話である。
 むしろドブ川は人間活動の引き起こした生態系へのインパクトの結果が、においや色でわかりやすくダイレクトに人間に表示されるという良心的な構造になっているとさえいえる。だからドブ川はよい教科書なのであって、くさいドブ川に出くわしたら穴の開くほど観察したほうがいいのだ。
 
 そのようなわけで、私は旅行をしてもドブ川はしっかりと見る。最後に、本編で取り上げなかった地方のドブ川のうち、印象深かったものを挙げておきたいと思う。

 静岡県掛川市の東海道の街道沿いで江戸時代から営業している旅館に泊まったとき、入り口の前に細いドブがあった。聞くとそれは掛川城のかつての外堀であったという。改めて周辺を歩いてみると、古い石積みの歴史を感じるドブが各所にあった。

 香川県小豆島町は醤油の生産で有名である。木造の醤油工場が立ち並ぶ馬木という集落を歩くと、毛細血管のように細いドブがあって、そのたたずまいが城下町のように美しかった。毛細血管が本流に注ぐ箇所には必ず小さな水門があり、それはいったい何かと尋ねたところ、大雨と満潮が重なったときに高潮で水が逆流してこないようにするためのものであるという。馬木は海に近い集落である。

馬木の樋門小豆島の馬木川の樋門

 京都の堀川通という大通りを歩いていると、道の脇に親水公園のような堀ができていた。昔ここには堀川という川が流れていたが、下水道の普及で空堀になり、それを近年親水公園として整備したと看板に書いてある。
 その水はどこからくるのかというと、琵琶湖の水ということであった。哲学の道もそうだが、京都は琵琶湖の水が使えるので、こういうときに便利である。

 埼玉県の越谷市には地表面すれすれの今にも溢れそうなドブ川があった。しかもその護岸は土がむき出しで崩れそうになっていて、野趣に溢れたドブ川であった。糸を垂らしている人がいたので聞いてみると、底にザリガニがいてそれを釣っているのだという。

 沖縄県那覇市のガーブ川という川で作業をしていた作業員が大水に流されて亡くなった、という悲しいニュースがあった。ガーブ川は那覇市の繁華街を流れる都市河川だそうである。私はその変わった名前の由来が気になってしまい、調べてみたところ、当地の言葉で湿地を表す言葉だという。南国の湿地の川がどのようなものであるか、いずれ見に行きたいと思う。

(修正・追記)
修正用雑記帳その1:どうやら谷崎潤一郎は便所のにおいは禮讃したが、ドブのにおいは酷評したらしいことが分かったのでそのことについて追記した。

32 新藤兼人監督『どぶ』


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 本日5月30日、新藤兼人監督が亡くなられた。
 監督の作品『どぶ』に感銘を受けて書いたこの章だったが、悠長に書いていたのでついにご存命中に書き上げることができなかった。
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


 * * * * *


 新藤兼人監督の『どぶ』は期待できるタイトルである。
 ドブという言葉は、もともと「金をドブに捨てるようなもの」のような比喩表現くらいにしか使ってもらえない言葉で、文学や映画でもタイトルくらいには使ってくれても、ドブそのものを主題に取り扱ってくれる作品にはお目にかかれない。しかし新藤監督の場合はずばり『どぶ』である。

 この映画の公開は昭和29年。若き日の乙羽信子の一風変わった演技で知られているそうであるが、私はなんといってもそのストレートなタイトルに惹きつけられた。逃げも隠れもしないこのタイトルならば、ドブは『どぶ』において内容的に枢要なポジションを占めているはずだ(このあたりややこしいな)。DVDを買って鑑賞してみた。

 この映画は終戦の混乱期を脱した京浜工業地帯の鶴見が舞台である。
 この頃になると人々はワイシャツを着て電車で通勤したりしている。戦後の復興から経済成長へとシフトしつつあったそんな時代、河童沼という沼のほとりにバラックを建てて住む人たちがいた。ここに乙羽信子演じる主人公が迷い込んでストーリーが進む。タイトルのどぶは河童沼のことである。はて、鶴見の沼とはどこであろう。

 映画が進んでいくと河童沼の場所はすぐに分かった。バラックの裏を築堤と鉄橋がカーブを描き、国鉄の蒸気機関車が貨車を曳くのが見えたからである。この築堤と鉄橋はJR東海道線が鶴見川を渡るあたりでオーバークロスする貨物線のものである。この築堤と鉄橋は今でも変わらない。してみると河童沼は鶴見川の氾濫原の湿地帯であろう。
 横浜市の昔の地図を見てみると、この場所に500m四方はあろうかと思われる広大な沼とも湿原ともつかない場所が広がっているのが見えた。これが河童沼であったか。こんなに大きいとは思わなかった。こんなに大きな沼が今の鶴見にあったらさぞ面白いと思う。

鶴見川を渡る貨物線 鶴見川を渡る貨物線

 とはいえ付録の解説を読むと、こういう風景はこの当時でも珍しいものであったことが分かる。
 監督がこの沼を見つけるのは湘南の逗子から勤務先の東銀座に向かう横須賀線の車中である。逗子・銀座・横須賀線という上品なルートの脇にある沼・バラックという構図が印象的だ。監督は沼のほとりに建つバラックのわびしさが戦後風景を象徴しているように思えて興味を覚え、この地を訪れたという。この当時、すでに河童沼のどぶは少しずつ過去の風景、平成の人にとっての昭和のような過ぎ去りつつある風景になっていたのかもしれない。
 映画ではバラックの住民に大金を与えて追い出し、沼を埋め立てて競輪場にしようとするセンセイが現れる。ここの大金が引き起こす喜劇と悲劇がこの映画のクライマックスである。こうした役に立たない沼が今にも埋め立てられようとする時代の雰囲気が伝わってくる。

 さて、現実の河童沼はどうかというと、競輪場にはならなかった。
 新藤監督を真似て河童沼の場所を歩いてみたら、横浜市の下水処理場になっていた。北部第一水処理センターという名称で、昭和43年に作られたという。川沿いの場所に下水処理場を作るというのはよくある話であるが、この場所にはもう少し切迫した事情があった。

 すぐ近くの鶴見図書館で小学校の昔の文集を読むと、洪水の話が実によく出てくる。
 洪水で1階が水浸しになった、船で登校した、ただでさえ汚いドブが多いのにそれが雨ですぐあふれる、もともと標高が低いのに周りの企業が工場用水をくみ上げるから地盤沈下して洪水がひどくなる、といった具合である。これを解消するためには低地に滞留する水を鶴見川に排出するポンプ場が必要であった。
 そのようなわけでこの下水処理場は下水処理機能に加えて、ポンプ場機能を併せ持って作られた。こうして鶴見は洪水に遭わずに済むようになったが、その代償としてかつての河童沼は下水処理場の四角い池の下に眠ることになったのであった。  

北部第一水処理センター北部第一水処理センター(左側が河童沼のあった北側部分。鶴見川河川敷から撮影)

 さて、河童沼が下水処理場に化ける過程をもう少し知りたいと思って『横浜下水道史』という本を読んでみると面白いことが分かった。
 この下水処理場は何回か拡張を重ねていて、最初にできたのは現在の処理場の南側の部分であったという。しかしもともと建設場所として考えていたのは北側の部分であった。この用地の取得が難航したのであきらめて南側に作ったが、結局後年、北側まで拡張したようである。この北側部分に関する記述が面白い。
 ここは「企業が廃棄物の捨て場として利用していた低湿地」であったという。この説明は新藤監督の解説とも符合していて、ロケで俳優たちを飛び込ませた沼はいろいろなものが捨てられていて危険だった、というエピソードがある。これが河童沼であろう。
 
 当時の河童沼はごみ捨て場なのであった。当時の人はなんともひどいことをしたものである、と言いたいが、現代人もむしろ平然と谷間の湿原を産廃処分場にするから偉そうなことは言えない。私は最初、河童「沼」を「どぶ」としたタイトル付けに違和感を持っていたが、もしかすると新藤監督はこの沼がごみ捨て場になっていたことをタイトルに含ませていたのかもしれない。

(参考)
『横浜下水道史』 横浜市下水道局 平成5年(横浜市立鶴見図書館などで閲覧可能)
『創立120周年記念 わたしたちの町 市場(第3版)』 横浜市立市場小学校 平成5年
『横浜市三千分一地形図 市場 昭和32年』横浜市都市計画課

<関連記事>
第33章 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(前編) 河童沼跡の下水処理場を調べているうちに、「横浜の下水道は外圧で渋々作らされたのではないか」という疑惑を抱き、それを調べているうちに珍説「名古屋便器都市説」を編み出すページ。

58 古隅田川

  新河岸川 新河岸川(埼玉県川越市)

 隅田川は埼玉県川越市から流れてくる。
 私はそう思っていた。隅田川を東京湾から上流にたどっていくと、両国、浅草、北千住を経て赤羽付近の岩淵水門で荒川に一旦接した後、新河岸川に名前を変えて和光市、朝霞市を通り、川越に至る。
 川越から先も流れは続くけれどもぐっと細くなって野の川となる。
 江戸幕府の重要都市である川越と江戸を一本で結んでいるというロケーションの良さが買われて、隅田川は水運の動脈として発展した……と思っていたらこれがまるっきり違っていた。

  sumida1 図1 「隅田川=川越源流説」(私の最初のイメージ)
 
 まず、隅田川の流路は昔の荒川の流路である。
 隅田川は岩淵水門で荒川からの分水を受けるが、昔はこれが分水でなく荒川本流であった。したがって新河岸川は隅田川の上流部などでなく、一支流に過ぎない。
 ということは、隅田川という名前は、荒川の江戸市中における愛称にすぎないのであったか……と思っていたらなんとこれも違っていた。

  sumida2 図2 「隅田川=旧荒川下流部説」(私の2番目のイメージ)

 綾瀬川の流路を地図でたどっていたときのことである。
 綾瀬川は埼玉県東部、ポジション的には荒川と中川の間のエリアを流れてくる中規模の河川である。これが東京都足立区の綾瀬まで流れてくると、荒川左岸(=東岸)にぴたっと並行して流れ、さらにその東から合流してくる中川と合流して東京湾に注ぐ。
 
 この綾瀬川の綾瀬付近に向かって尺取虫のように激しく蛇行した支流が東側から接近する。尺取虫は常磐線の綾瀬駅あたりから発しているように見える。水色で記されているところを見ると開渠のようである。名前はと見ると「古隅田川」であった。「ふるすみだがわ」と読む。

  sumida3 図3 綾瀬川と古隅田川の位置関係  

 こういう名前の河川は結構ある。
 古利根川に元荒川、現存はしないが古鬼怒川に古多摩川などというものもある。これらは、現在の同名の河川がかつてたどっていた流路を指していう。
 大きな河川は長い年月の間には流路を変える。この変わり方はかなり突拍子のないもので、例えば現在の多摩川は武蔵野台地の南縁を流れているが、古多摩川は北縁を流れており、現在の相模川は相模湾に注いでいるが、古相模川は東京湾に注いでいた、といった具合である。
 流路が変わると元の広い流れは失われるけれども完全に無くなることはなく、細い流れになって残る。本流でなくなってしまった川なので流量も少なく、したがって洪水を起こす危険もあまりなく、治水工事でまっすぐに直されることもないので曲がりくねっている。古隅田川もこのたぐいの川であろう。
 私はこの川の激しい曲がりくねり具合に興味を覚え、8月のある日綾瀬駅に降り立った。

 綾瀬駅から東にしばらく歩くと妙な曲がり方をした道路があり、遊歩道風になったかと思うと親水せせらぎらしきものが現れる。古隅田川は暗渠化されて上部が親水せせらぎになっている模様である。
 このせせらぎは交差点を越え、住宅地の道路面スレスレに水をたたえながら道端を貫く。水面に糸を垂らしてザリガニを釣るおじさんや子供がいる。糸が絡まったと言ってけんかをしている兄弟がいる。
 
 しばらく歩くと親水せせらぎは終わり、地下から幅10mほどの無骨な古典派ドブ川が顔を出す。水路内には背の高い草がびっしり生えている。この川はクネクネと曲がるというよりは、まっすぐに進むと突如直角に曲がり、しばらくするとまた脈絡もなく直角に曲がるということを繰り返す。

  古隅田川(開渠区間) 古隅田川(親水緑道でない区間)

 この曲がり方は地図上で見ると異様に見えるが、現物を見ると全く違和感を覚えない。川というものは曲がっているほうが自然なのだと思う。護岸もまっ平らでなく、地肌の凸凹がそのまま反映するモルタル・コンクリートの吹付になっている。水質はさほど悪く見えないが、これぞ正調ドブ川である。
 そのようにして1kmほど進み、ポンプ場に吸い込まれる。ポンプ場の先は綾瀬川の高いカミソリ護岸であった。
 古隅田川沿いには由来を解説した説明板がいくつもあり、その内容を要約するとこうであった。
 
 ・昔、利根川はこの流路を流れて隅田川を経て東京湾に注いでいたが、
 ・長年の治水工事で東方へ流路が移り変わるうちに、ここを流れる水は少なくなり、
 ・古隅田川として細い痕跡を留めて今に至る。
 
 なんと。
 この川は隅田川に繋がっていたのであった。名前からすれば容易に推測できそうなことではあるが、古隅田川と現隅田川の間には荒川の広大な河川敷が横たわっているので、感覚的に結びつかなかった。
 
 しかし現在の広大な荒川下流部は、大正時代に洪水対策の放水路として人工的に開削された「荒川放水路」である。このことは永井荷風が『放水路』という随筆に書いている。
 すると、荒川放水路は昔からここにあった隅田川の流路を分断して開削された可能性がある。
 つまり隅田川はもともと、江戸の北東、葛飾方面から東京湾に向かって流れてくる川の名称であり、北西から流れてくる荒川の旧下流部の愛称などではない、ということが言えそうである。
 
 放水路によって分断される前の隅田川がいかなるものであったか。私はそのことに興味を覚え、『放水路』を読み直した。
 荷風は荒川放水路の荒涼とした景色がよほど気に入ったらしく、足繁く通って昭和11年にこの随筆を書いている。ちなみに荷風はその名もずばり『すみだ川』という小説も書いているが、明治42年作のこの小説には浅草あたりの隅田川しか登場してくれないので参考にならない。

 荷風は足立区の千住曙町、駅でいうと東武線の堀切駅付近で荒川放水路から隅田川に向かって水路(原文では「掘割」)が通じているのを発見し、これを「綾瀬川の名残であろう」と推察する。なかなかするどい。
 現在の古隅田川の水は、ポンプ場によって綾瀬川に排水され、綾瀬川はその600m下流で荒川放水路に接近する。この場所に綾瀬川から荒川放水路に連絡する短い水路があり、その400m下流に今度は荒川放水路から隅田川に連絡する荷風推察の水路がある。

  sumida4 図4  綾瀬川~荒川放水路~隅田川連絡水路

 これは確かに、荒川放水路によって分断される前の旧綾瀬川の流路にあたる。しかし荷風がこれを「隅田川の名残であろう」と言わずに、「綾瀬川の名残であろう」としているところが引っかかる。
 この水路の上流には古隅田川が合流していて、下流には隅田川があるのだから、ここを「隅田川の名残り」としてもいいはずなのに、「綾瀬川の名残り」という表現を用いている。

 荷風は浅草や玉ノ井といった下町に足繁く通ったが、それは「隅田川沿いの下町」である。当然隅田川には慣れ親しんでいるわけで、あえてそこに埼玉から足立区、葛飾区に流れ来る綾瀬川の名を持ち出してくることが少々不自然に思える。
 そこで荒川放水路完成前の大正10年の地図を見る。すると当時の地図上では次のような区分で名づけられていたことが分かった。

 ①荒川: 埼玉県から流れてきて、現在岩淵水門になっている付近で新河岸川と合流し、千住曙町で綾瀬川に合流するまで
 ②綾瀬川: 埼玉県から流れてきて、古隅田川を合して荒川放水路予定地を横切り、千住曙町で荒川に合流するまで
 ③隅田川: 千住曙町でが合流して東京湾に至るまで
 ④古隅田川: 地図に名称が載らないほどの細流で不明

  sumida5 図5 大正10年地図での区分

 これを踏まえると、荷風の時代においては、
 ・隅田川とは東京湾から千住曙町までのことであり、
 ・その上流は荒川または綾瀬川であり、
 ・綾瀬川の下流部が隅田川の旧流路であるという認識は一般的でなかった。
 
 ということが言えそうである。
 古隅田川はもともと、利根川→古利根川(現中川の上流部)→中川→亀有付近→古隅田川→小菅付近→綾瀬川→千住曙町付近の水路→現在の隅田川→東京湾という流れていたルートの一部である(※)。
 しかしこのルートは曲がりくねっていて水害が多発していたことから、亀有付近から東京湾へショートカットする川(現在の中川)を開削し、隅田川方面に水が流れないようにした。
 その結果、古隅田川の広い流路は干上がることとなり、この土地を新田開発に用い、残った流路は排水路として用いた、このような変遷を経ている。
 この流路変更が行われたのは江戸時代の享保年間。すると明治の頃の古隅田川は、名も無き水田の排水路として定着していたものと思われる。

  sumida6 図6 江戸時代以前の古隅田川

 こうしてみると『放水路』における「綾瀬川の名残りであろう」という記述は納得がいく。永井荷風は、古隅田川が利根川の旧流路であったことが忘れられ、それに代わって綾瀬川が燦然と隅田川に直通していた時代の作家であり、それを読んでいる私は、その綾瀬川が荒川放水路の東に追いやられて久しい時代にやってきた人間なのであった。
 当時の隅田川はすでに工場排水で汚染され、名物だった蜆は綾瀬産の養殖物に取って代わられていた、と田山花袋の随筆にある。

※ ややこしいことに古隅田川は埼玉県岩槻市にもある。しかしこの川は「大落古利根川」を経て中川に合するから、かつては都内の古隅田川と一連の流れであったものと思われる。古隅田川(埼玉県のHP)

(参考文献)
荷風随筆集 上 日和下駄 (岩波文庫 緑 41-7)
『放水路』を収録。ドブ川の小橋に惹かれる心理を描いた『日和下駄』も収録。

評伝 技師 青山士―その精神の軌跡 万象ニ天意ヲ覚ル者ハ… 高崎哲郎/著 鹿島出版会 平成20年
荒川放水路の建設を指揮したのはこの人である。工事にあたっては、地盤の軟弱さ、宿場町の千住を避ける必要があったこと、工事中に関東大震災があったこと、岩淵水門の設計が難しかったなどの困難があったとある。注目すべきはこの人の人格の高潔さで、自ら渡航してパナマ運河開削工事に携わった後、帰国して内務省に入り、「私はこの世を私が生まれてきたときよりも、より良くして残したい」と言って信濃川や鬼怒川の改修など数々の難工事を指揮し、真面目で芸者が嫌いでおまけに永井荷風と同世代である。荷風より1年早く生まれて4年遅く亡くなっている。いろいろな生き方があると言える。

川の地図辞典 江戸・東京/23区編 補訂版』 菅原健二/著 之潮 

『明治・大正・昭和・平成の4代120余年の歴史が読める 地図で見る東京の変遷(平成版)』 (日本地図センター 平成4年)に収録の大正10年5万分の一地形図 (絶版)


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プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

カテゴリ
「日本のドブ川」カテゴリを廃止して「法律からアプローチする」を新設しました。ドブ川を全国レベルで捉えると、どうしても法律の話メインになるのでこのように変更しました。(H26.11.15)
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