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2 渋谷川の水はどこから来るのか

渋谷川源流部


 渋谷川は山手線の渋谷駅前から東京湾まで流れる全長約7kmの川である。
 コンクリートの巨大な排水溝といった風情の都市河川だが、水はそこそこきれいでドブ川というほど汚くはない。この川の水はどこから流れてきたものなのか、と前から疑問に思っていた。
 
 渋谷川はもともと新宿御苑の池を水源に、原宿、渋谷、麻布、と流れて浜松町付近の東京湾に流れる自然の川であった。このうち新宿御苑から渋谷駅前までの上流部分が東京オリンピックの頃にフタをされて暗渠になる。
 
 川沿いから出る生活排水で渋谷川がドブ川化したので、フタをしてそのまま下水路として使うことになったためである。
 原宿の裏通りには渋谷川のあった場所に遊歩道が続いているが、その地下は渋谷川を転用して作った千駄ヶ谷幹線と呼ばれる下水路になっている。
 
 一方、渋谷駅前から下流は暗渠にされずに川として残った。では現在この部分を流れている水は上流から流れてきた下水なのだろうか。どうもそのようには見えない。
 開渠の川に原宿や渋谷あたりのビルの下水がそのまま流れ込んだらとんでもない悪臭になるはずだが、そうはなっていないからである。
 
 東京都の下水道の図面を調べてみると、千駄ヶ谷幹線から流れてきた下水は渋谷駅前の地下で川跡を離れて、明治通りの地下に作られた下水路に接続され、港区の下水処理場に流れて行くようになっているようである。では渋谷川を流れている水は何者なのか。

*  *  *  *  *
  
 昭和40年代、東京に下水道が整備されると、渋谷川の水量は極端に減ってしまった。
都会では自然の湧き水がほとんどないので、雨が降ったときと、下水道につないでいない建物から排水が流れたときしか水が流れない。
 すると、少ない川の水が真っ黒になってしまうという現象が起きた。
 私も昭和60年ごろ墨汁のような色の目黒川を見たことがある。人間が流す排水はああまで黒くはないはずなのに、どうして川の水は真っ黒なのだろうか不思議なことであったが、その仕組みはこうである。

 まず、生活排水という水源を失った渋谷川は勢いがないので東京湾まで流れない。
 そのうえ東京湾の海面は潮の満ち引きで毎日数メートル上下するので、満潮で海面が上昇すると澱んだ水が渋谷川を逆流してくる。干潮で海面が低下するとまた海に向かって流れて行くが、勢いがなくてやはり海まで出られない。
 すると渋谷川は澱んだ水が行ったり来たりするだけの細長い汚水のため池のようになってしまい、その中で腐敗が進んでその化学反応で真っ黒になる。
 
 そこで東京都は、新宿区落合にある下水処理場で浄化された水を専用管で渋谷まで運び、これを渋谷川に流すということを始めた。現在渋谷川に流れている水はこの下水処理水だ。
 渋谷と恵比寿の間の並木橋にこのことを説明した看板が立てられており、川を見下ろすと放流口があって、少し緑がかった水が流れ込んでいる。

 この専用管はさらに先へ延びていて、目黒区大橋で目黒川に、目黒区緑が丘で呑川にも水を送っている。
 落合の下水処理場というのは神田川沿いの下水を処理する施設なので、つまり渋谷川の水は神田川水系の下水(の処理水)ということになる。
 おかげで渋谷川は魚の群れの見られる川になったが、この水をポンプで送るための電気代は相当なものであるらしい。都会のドブ川はけっこうお金がかかる仕組みになっているのだ。

(参考)
下水道台帳図(東京都下水道局)

(H23.6.4追記)
参考文献ではないのですが、戦前まで遡って渋谷川の暗渠化を詳説した書籍が出ました。著者の田原さんの企画展の展示図録はドブ川雑記帳でも大変参考にさせていただきました。
春の小川はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史 (フィールド・スタディ文庫6)

(H23.12.29訂正)
呑川への下水処理水放流地点について「目黒区緑が丘」を書くべきところを「目黒区奥沢」と誤記していたので訂正した。われながらこの間違いは興味深い。詳細は(修正用雑記帳7)。

(H25.2.2追記)
 Wikipediaや、東京都都市計画審議会ホームページの資料(pdfファイルの35ページのところ)によると、平成21年5月22日に渋谷川の上流端は、従来の宮益橋(東急東横店のところ)から稲荷橋(246号線のところ)に変更され、250m短縮されたようである。したがって現在は同百貨店は「川の上」にはない。
 渋谷川に関しては渋谷駅東口の再開発や東横線跡地を利用した水辺空間再生などの動きが報道されており、いろいろ変わりそうである。

<関連記事>
第35章 東急百貨店渋谷店のトイレ 「渋谷川の上に存在するデパートとして有名であった東急百貨店東館のトイレの排水は、昭和8年当時どのように処理していたのか?」について調べてみた。
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10 公共溝渠

公共溝渠についてはこちらもどうぞ。→30 公共溝渠と普通河川と水路はどう違うのか(前編)
公共溝渠図面
                (東京都下水道台帳図より)

 東京の区部には巨大なコンクリート水路のような都市河川はあるが、郊外にあるような幅2mくらいのドブ川はほとんどない。
 土地が過密に利用される東京では、川として残すべきところと下水道に転用するべきところを厳然と区別して、あいまいな開渠のドブ川が存在し得ないようになっている。

 しかしその中にあって天然記念物的に開渠のドブ川が残されている場所もある。
 東京都世田谷区奥沢三丁目。ここに500mほども続くドブ川がある。幅、深さともに2mほどで、水は少なく、においもなく、途中で暗渠の下水路に合流して呑川という川へと至っている。都会の住宅地とドブ川のミスマッチが素晴らしい。

  公共溝渠(開渠)

 このドブ川には名前がない。正式な河川ではないので東京都の河川図には載っておらず、下水道台帳図を見ると「公共溝渠・開渠」とだけ記されている。公共溝渠とは一体何であるか。
 「溝渠」とは水を通すための溝のことであるから、字面を追えばさしあたり「公共の水路」ということになる。その意味では農業用水路も運河も「公共の水路」であるが、下水道台帳図で見る限り、この名称は雨水や染み出した地下水を流すドブ川に与えられているようである。
 昔は川として流れていたものが生活排水路のドブ川となり、やがて下水道が整備されて用済みの空堀になり、廃止を免れた空堀にこの名が付けられた、そのように見受けられる。その出自を表すかのように、公共溝渠はたいてい古ぼけたコンクリートでできている。

 そんな懐かしい空気を漂わせる公共溝渠であるが、見つけるのはなかなか難しい。
 下水道台帳図を見ると公共溝渠と書かれた箇所を見つけることができるが、その数はとても少ないうえに、それらがすべて開渠のドブ川とは限らないからである。公共溝渠には次の3つのタイプがある。
 ・開渠のもの
 ・蓋掛のもの
 ・暗渠のもの
 開渠はいわゆるドブ川の状態、蓋掛はコンクリートの蓋をして事実上道路になっているもの、暗渠はアスファルトで舗装されて同じく道路になっているものである。

 この中でドブ川としての体裁をなしているのは開渠のものだけである。
 開渠の公共溝渠は本当に少なく、私も世田谷区内でいくつかを発見できたに過ぎない。開渠だったところもいつの間にか暗渠にされてしまったりすることもあるから油断ならない。
 しかし「蓋掛」や「暗渠」がつまらないかというとそんなことはなく、ドブ川が絶滅危惧種になってしまっている東京においては、ドブ板を渡しただけの「蓋掛」やコケの生えた薄い舗装でマンホールの密集する「暗渠」は、それだけで十分ドブ川の痕跡を関知することのできる重要なしるべとなる。
 「蓋掛」と「暗渠」は要するに道路になってしまっているのであるが、それをあえて溝渠と言い張るところに水辺の記憶を消し去ることのできない人間の不思議さを感じることができるし、かつてのドブ川が多様な構造物に化けている姿を観察する楽しみがある。東京の川は、ほかにもそんな摩訶不思議にあふれている。

 例えば下水道台帳図を見ると、「水路敷(区道扱い)」と書かれた細道を見ることがある。
 かつて川が流れていたところに蓋をして歩行者用の区道にしているものである。これも事実上道路なのであるが、登記簿の上では水路のままになっている。
 水路でありながら事実上は道路ということになると、前述の暗渠の公共溝渠と同じスタイルではないかと思うのだが、なぜか下水道台帳では扱いを分けて一ジャンルを形成している。「水路敷(区道扱い)」と「公共溝渠(暗渠)」はどう違うのかということを考えながらドブ川跡を歩くのだが、いまだに解明できない。

 摩訶不思議の極みは目黒区にある蛇崩川遊歩道である。
 ここは蛇崩川というドブ川に蓋をして、蛇崩川幹線という下水道に転用したときに作ったもので、東京によくあるタイプの遊歩道である。ちなみにここは「遊歩道」とは呼ぶものの道路ではない。法律上は公園の一種ということになっていて、そのアリバイのように遊具やベンチが置かれている。

  蛇崩川遊歩道
   蛇崩川遊歩道

 では蛇崩川は下水道に転用されてなくなってしまったのかというと、これがいまだに河川法上の二級河川として登録されていて、東京都の河川図には蛇崩川がきちんと載っているのである。地上は遊歩道、地下は下水路になっているにもかかわらず、である。
 その仕組みは複雑で、川に蓋をして地上を公園として貸して、地下は下水道に貸しているが、川はなくなったわけではない、ということになっている。この話を聞いたとき、私はその理解を超えたロジックに感心してしまった。

 川とは流れる水のことにあらず、流れる空間のことにもあらず、水が流れうる空間が連続して存在し続ける事象のことなり。なぜか突然インチキ格言風になってしまったが、蛇崩川は「川とは何か」という根源的な問いを突きつけてくる。東京にはそういう川がほかにもいくつかある。

17 渋谷川や目黒川はなぜ開渠区間が長いのか(前編)

開渠で残されている古川(東京都港区)古川 東京都港区)

 東京都区部は、日本で最もドブ川の暗渠化が進んだ地域の一つである。汚れたドブ川は徹底的に暗渠にして下水路に転用されていった。
 ところがそんな東京でも開渠で残っている川は結構ある。隅田川は幅が広いので当然だとしても、神田川や石神井川などはそれほど幅の広い河川ではないのに水源から河口までほぼ完全に開渠で残っている。また、渋谷川、目黒川、呑川、立会川などの中小河川は上流部は暗渠化されても下流部は今でも水面を見せている。これらの川はなぜ開渠で残されているのだろうか。

 東京の川が暗渠化されていったのは、一つにはくさいドブ川にフタをして悪臭から逃れたいという住民のニーズが、下水道に転用したい行政の思惑とマッチした結果といえる。実際フタの威力は絶大なもので、夏場にドブ川沿いを歩くと、どんなに強烈なドブ川でもフタをしている場所だけはにおいがシャットアウトされる。だから私にはドブ川を暗渠にしたいと願った当時の人の気持ちがよく分かる。
 しかしそれならばなぜフタをした川としていない川があるのだろうか。フタをしていない渋谷川の下流部や神田川はくさくなかったのだろうか。どうもそうは思えない。私は東京の暗渠の歴史を調べることにした。

 戦前から東京には下水道の計画があるにはあった。しかし費用がかかるのでわずかしか進まず、戦争が始まると完全にストップした。戦争が終わると東京は瓦礫の山である。戦後はこの瓦礫を中小河川に捨てて埋め立て、その土地を売却して瓦礫処理に充てるということが行なわれた。

 昭和30年代になると人口が急増したので、排水で川がドブ川化した。現在の都内の川の水質をBODという汚染度を表す数値で表すと、「汚いなあ」と思う川でも5mg/lくらいの値に収まっている。しかしこれが昭和36年の隅田川だと38mg/l、日本橋川で92mg/lというから、当時はわれわれの想像を超えた汚染だったことが分かる。
 この状況を打開するために東京都は4つの方針を立てた。昭和36年のことである。
       *   *   *
  ・源頭水源を有しない14河川の一部または全部を暗渠化し、下水道幹線として利用する。
  ・下水幹線化する以外の区間についても、舟運上などの理由から特に必要のない場合をのぞき、覆蓋化する。
  ・覆蓋化された上部についてはできるだけ公共的な利用を図ることとする。
  ・暗渠、覆蓋化にあたっては、狩野川台風並みの降雨でも氾濫しない能力を与えることを原則とする。
       *   *   *
 要するに、ドブ川化した中小河川を下水路に転用して暗渠にし、上部を緑道などにしようというのである。対象になった14河川を水系別に整理するとこうなる。

  ①呑川のグループ・・・・・・・呑川 九品仏川(支流)
  ②立会川
  ③目黒川のグループ・・・・・・目黒川 北沢川(支流) 烏山川(支流) 蛇崩川(支流)  
  ④渋谷川のグループ・・・・・・渋谷川(上流部) 古川(下流部)

  ⑤神田川の支流の桃園川
  ⑥石神井川の支流の田柄川

  ⑦江戸川の分流の長島川
  ⑧中川の支流のグループ・・・前堰川 小松川境川東支川


 大まかに言って、①~④は東京の西南部(いわゆる城南)、⑤⑥は西北部(いわゆる武蔵野)、⑦⑧は東部(いわゆる下町低地)に位置する。   
 ここで興味深いのは、東京の西南部の河川(①~④)がことごとく暗渠化されていることである。
 ①~④の河川を暗渠にすると、東京西南部にはほとんど開渠の川が残らない。⑤⑥を暗渠化しても神田川や石神井川が健在な西北部や、⑦⑧を暗渠化しても荒川など大きな川の残る東部地域とは対照的である。なぜ東京西南部の河川は徹底的に暗渠化されたのか。
 
 探ってみると東京西南部には、暗渠化されやすい4つの要因が見つかった。
 一つは、戦後急速に開発された地域であること。下水の未整備で川の汚染がひどかったと察せられる。しかし他の地域でも事情は同じだからこれは決定的な要因とは言えない。
 二つ目は、湧水に乏しいこと。たとえば⑤⑥のある東京西北部の川は井の頭池や石神井池などの大きな池を水源としていて、豊富な湧水が源頭にある。東京西南部にはそれがあまりない。湧水が乏しいと流れる水は下水主体になりやすい。
 
善福寺池善福寺川(神田川支流)水源の善福寺池の看板。風致地区として保全されている。

 三つ目は、①~④の河川のいずれもが、直接東京湾に注ぐ独立した水系になっていること。例えば東京の西北部にあって暗渠化の対象にならなかった神田川や石神井川は隅田川の支流である。その隅田川は荒川の支流で、荒川は国が管理する一級河川。したがって神田川や石神井川を改修しようとする時は、「荒川水系」のなかで考えなければならない仕組みになる。ところが西南部を流れる①~④の河川は、直接東京湾に注いでいるのでその川のことだけを考えればよい。そんな事情から、これらの河川では当時のニーズをすばやく反映して暗渠にしてしまったというような事情が推測できる。
 四つ目はオリンピックである。昭和36年といえば東京オリンピックの3年前。そのなかでも渋谷区はオリンピック施設が密集するので、外国人の集まるこの地域のトイレを水洗化することが急務であった。この地域を貫流する渋谷川が真っ先に暗渠の下水幹線にされたのはこうした事情が絡んでいそうであるが、当初は日本の玄関口となる羽田空港から代々木にかけての地域の下水道をまとめて整備しようという構想があったという。地図を見るとこのライン上にあるのが①~④の河川である。

 四番目は根拠薄弱のきらいがあるが、こんな風に考えると当時の河川の暗渠化がどんな基準で進められたのかが見えてくる。しかしまだ疑問は残る。
 暗渠化の急先鋒となった①~④の川は、なぜかその下流部だけが開渠のまま温存されているからである。

  ・渋谷川水系:渋谷駅前から下流7.3kmが開渠
  ・目黒川水系:目黒区大橋の国道246号線より下流7.8kmが開渠
  ・呑川水系 :目黒区奥沢の東急目黒線より下流約10kmが開渠
  ・立会川水系:品川区大井のJR東海道線より下流0.8kmが開渠

 なぜなのだろうか。渋谷川、目黒川や呑川は下流部が舟運に使われていた歴史があるので分からなくはないが、中流部が開渠で残っている理由が分からない。さらに、開渠の区間が川によって長短まちまちなのも分からない。しかしこの疑問はじきに解けた。(「18 渋谷川や目黒川はなぜ開渠区間が長いのか(後編)」につづく)

<参考にした書籍・文献・論文>
川の地図辞典(之潮)
「特別展「春の小川」の流れた街・渋谷」(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館)
この展示図録はもう在庫切れだそうですが、もっと詳細な書籍がこちらで出ています。
春の小川はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史 (フィールド・スタディ文庫6)

東京都河川図
目黒区総合治水対策基本計画素案
東京都の中小河川の都市計画に関する歴史的経緯 石原成幸 (H21都土木技術支援・人材育成センター年報)

18 渋谷川や目黒川はなぜ開渠区間が長いのか(後編)

  内川内川(大田区大森東付近)

「17 渋谷川や目黒川はなぜ開渠区間が長いのか(前編)」からつづく)

 ヒントは呑川と立会川の間にあった。
 呑川は大田区の羽田で東京湾に注ぎ、立会川はその4km北の大井で東京湾に注ぐ。この間にもう一つ、内川という目立たない川がある。大田区馬込の谷戸から発して品川区の平和島あたりで東京湾に注ぐ川であったが、昭和46年にBOD換算で約100mg/lという猛烈な汚染に至ったので暗渠化された。
 今はほとんど暗渠の下水幹線になっているが、JR東海道線をくぐる場所から下流の1.6kmだけがやはり開渠になっている。内川もやはり東京西南部河川のパターンを踏んでいるのだ。そこでこの川の構造を解剖してみる。                     
   位置関係はこちら→東京都河川図(東京都のHP)
   内川の流域図はこちらの最終ページ(内川河川整備基本方針・東京都)

 暗渠で進んできた旧内川の下水幹線は、内川が開渠になる場所でさらに地下に潜って、開渠の内川の地下を下水処理場に向かう。
 いっぽう、開渠で残された地上の内川には流れ込む水がないので、東京湾の満ち引きで水面が上下するだけの細長い水溜りのようになっている。そのような状態なので東京の川にしては珍しく汚れていて、その対策のための資料が数多く公表されている。
 
 そこで分かったのは、内川には一つ役割があるということであった。大雨で暗渠区間の下水幹線が容量オーバーになったときに、オーバーした分を引き受ける役割である。
 内川を暗渠にした下水幹線は造りが古いので、雨が降ると雨水がそのまま下水路に流れ込む構造になっていて、たちまち容量オーバーする。そこで苦肉の策としてオーバーフローした雨水混じりの下水を内川の開渠部分に放流して急場をしのぐ。これが内川、ひいては東京湾の汚染の一要因になるのだが、とりあえず現状ではそうするしかない。
 このとき内川に放流される下水の量は毎秒18m3に設定されている。しかし放流されても東京湾が満潮だったりすると河口から排出できずに川が溢れてしまうので、河口に水門を設けて海水の逆流を防ぎつつ、ポンプで海に汲み出すようになっている。この能力が同じく毎秒18m3。
 つまり内川は下水幹線の下流部におけるバイパスの役割を果たしていたのである。すると他の河川も、基本的にこの役割を果たすために開渠になっているのではないかと推測できる。下水道台帳図を見るとこうなっていた。

 ・渋谷川水系:新宿御苑の源流部から渋谷駅付近までが暗渠の下水幹線、
          そこから先は下水幹線は明治通り下に逸れて、渋谷川の流路は開渠となる。

 ・目黒川水系:世田谷区烏山付近の源流部から目黒区大橋の国道246号線付近までが暗渠の下水幹線、
          そこから先は下水幹線は山手通り方向に逸れて、目黒川の流路は開渠となる。

 ・呑川水系: 世田谷区桜新町の源流部から目黒区の大井町線緑ヶ丘駅付近までが暗渠の下水幹線、
          そこから先は下水幹線は付近の街路の地下に逸れて、その先から呑川の流路は開渠となる。

 ・立会川水系:目黒区の碑文谷池付近の源流部から品川区大井のJR東海道線付近までが暗渠の下水幹線、
          そこから先は下水幹線は付近の街路の地下に逸れて、立会川の流路は開渠となる。

 いずれの川も開渠になっている区間には必ず並行する下水幹線が用意されていた。その区間では晴天時には開渠の区間は空堀にしておいて、大雨になったら雨水混じりのオーバーフローした下水を流すバイパスとして利用しよう、おそらくそういう考え方で開渠の区間を残したのだろう。
 うがった見方かもしれないが、開渠で残してあるのも「景観に考慮して開渠の川を残しておこう」というような配慮ではなく、「非常時しか汚水は流れないのだから暗渠にせずに建設費を節約しよう」という考えから出たものと思う。なぜならその考え方に立てば、開渠区間の距離が川によって異なるという謎もうまく説明できるからである。

 内川はもともと小さな川で、内川に水が流れ込む地域の面積(流域面積という)はわずかに3.25km
 しかし立会川の流域面積はそれより少し広く、呑川水系になるとぐっと広くなって17.5km、渋谷川水系は22.8km、世田谷の北部から流れてくる目黒川水系はもっと広くて45.8kmになる。流域面積が広ければ広いほど、大雨のときに下水が集中して溢れる危険度と面積が大きい。
 だから渋谷川や目黒川は比較的上流の方で下水幹線を分岐させて開渠区間との二本体制にした。さらに開渠の区間の川底はできるだけ深く掘り下げて迫り来る水を大量輸送できるようにした。それが渋谷川や目黒川の開渠区間の長さに繋がっている、そのように考えることができる。
 これは遠くの街から多くの車が集まる幹線道路ほど、都心のはるか手前からバイパスを造らなければならなかったり、多くの客を集める長距離の鉄道幹線ほど、ターミナルのはるか手前から複々線区間を用意しなければならないのと同じ構造といえる。

 この視点で見ると、神田川が汚染がひどかったにもかかわらず、全区間開渠で残されている理由もわかる。
 神田川の流域面積は105kmで東京の中小河川ではダントツに広い。さらに神田川は水害の頻発河川であったので、開渠の川はそのまま残して下水道は上流から下流までほぼ全区間、川に並行する形で新設するという破格の対応が取られている。その北にある石神井川もしかり。

  神田川


 開渠で残された都内の川は今でこそ珍重されているが、もともとは大雨のときの下水のバイパスとして残しておかざるを得なかった50年前の洪水対策の産物なのであった。
 なんだか実もフタもないような話であるが、過密な都会ではドブ川といえども道路や鉄道と同じような発想で「整備」されざるを得ない切実さがある。その証拠に現在東京では、東京湾に向かって流れる4水系10河川を縦に串刺しにして連絡する地下のバイパス河川が作られようとしている。こういう姿を見ると、田舎のドブ川は素朴な構造でよかったななどと思ってしまうのだ。

(追記)
 『39 続・渋谷川や目黒川はなぜ開渠区間が長いのか』でこの説が本当に正しいかどうかを採点してみた。

(参考)
東京都下水道台帳図(東京都のHP)

「環七地下河川」構想(㈱クボタのHP)

修正用雑記帳その7

第2章「渋谷川の水はどこから来るのか」関連
 落合下水処理場の水が呑川に放流されていることを書いたくだりで「世田谷区奥沢」と書くべきところを「目黒区奥沢」と誤記していたので訂正した、
 と書こうとしてよく地図を見たら、なんとこの場所は目黒区緑が丘3丁目であった。
 川が流れているからまさか「丘」ではなくて「沢」だろう、という私の油断であったが、明らかに谷底なのに「丘」を名乗っている名付けが興味深い。最寄で呑川緑道脇にある大井町線の駅名も緑が丘で、九品仏川の谷底の自由が丘駅や尾山台駅、立会川緑道近くの旗の台駅とともに大井町線ミスマッチ四天王といえる。
 なお、大井町線には急行が走っているが停車駅は自由が丘、大岡山、旗の台といずれも「高台地名」ばかり。このうち本当に高台なのは大岡山だけである。
 

第9章「ドブ川の小鉄橋」関連
 大井町線等々力駅の小鉄橋の下を流れる水路のことを「逆川である」と断言していたが、lutus62さんのサイトのHONDAさんのコメントを見てよく調べたところ、「逆川と関連はありそうだが正体不明の川」ということが分かったので本文を修正した。
 改めて東京都の下水道台帳を見ると、公共溝渠でもなく、水路の前後に下水の雨水管が接続されているわけでもないという正体不明の水路であった。
 ①もともと逆川→②暗渠化して別ルートの下水管に移行→③逆川は用途廃止→④鉄道交差部分だけ鉄道構造物として残存、という経過をたどったものではないかと推測するが、確実なことはよく調べないと分からない。この小鉄橋の尾山台寄りにもうひとつ小鉄橋があり、これもなんだか気になる存在である。


目黒区川の資料館の廃止について
 私がひそかに愛用していた中目黒の「目黒区川の資料館」が平成24年3月31日を持って廃止されるということを解説員の方から伺った。この資料館は資料も面白いが、解説員の解説はそれ以上にすばらしかったのに残念なことである。今までどうもありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

39 続・渋谷川や目黒川はなぜ開渠区間が長いのか

渋谷川の河口 渋谷川(古川)河口付近
 
 以前、『渋谷川や目黒川はなぜ開渠区間が長いのか』という章を書いた。暗渠の下水幹線に転用されるのが当たり前の東京の中小河川で、開渠区間が残されている理由について考えてみたものである。
 
 その章では、開渠区間が残っているのは「大雨の時の雨水排水バイパスとして残す必要があったからではないか」と締めくくった。
 これはこれで今でもそうだと思っているが、この章は推測の部分が多い。私が「そうなるはずだ」と言っているだけでウラを取っていない。
 そこで本当のところはどうなのか確かめてみたいと思い、目黒区川の資料館(現在閉館)に行って尋ねてみた。すると見せていただけたのは『36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想』(中村晋一郎・沖大幹 2009年2月)という論文であった。
 
 こんな論文があったとは。
 これは平成20年の土木学会の水工学論文集に掲載され、ウェブサイトでも閲覧できるが今まで読む機会はなかった。しかし36答申という言葉は今まで何回も遭遇し、都内のドブ川にとって重要な意味を持つ文書だということは知っていた。
 昭和36年に出されたから通称36答申(サブロクトウシン)。
 この答申は、オリンピック直前の東京で、河川の汚染対策と下水道整備を急いで進めるために出された。36答申は字面こそ「答申」とソフトだがこれによって「都内のドブ川→下水道に転用」というその後の方向性が決定的なものとなる。要するにドブ川の敵である。
 
 私はこの論文をこわごわ読んでみた。果たして以前の私の推測は正しかったのか?
 採点表は以下のとおりとなった。

  推測①「暗渠化は悪臭から逃れたい住民と下水道を整備したい行政の思惑が一致した結果でろう」→
  推測②「暗渠化された河川は戦後急速に開発された地域の河川で水が汚れやすかったであろう。」→当たり前のことなので言及なし
  推測③「暗渠化された河川は池などの水量豊富な水源がなく、水が汚れやすかったであろう」→(ただしそのことはもともと答申に書いてある) 
  推測④「暗渠化された河川は東京湾に直接注ぐ独立した中小河川だったので暗渠化の決断が素早くできたのであろう」→言及なし
  推測⑤「暗渠化はオリンピック施設と羽田空港に挟まれたエリアが特に選ばれているのではないか」→言及なし
  推測⑥「大雨の時には雨水も下水管に流れて溢れるので、雨水排水バイパスとして開渠区間を残す必要があったのではないか」→
 
 論文のテーマと私の関心にズレがあるのでうまく検証しにくいが、思いもしなかった新発見がいくつかあった。それは推測①③⑥の箇所である。
 
 まず推測①
 私は暗渠化が36答申で編み出された手法のように書いているが、中小河川を下水転用する構想は昭和25年からあったという。しかしそれがなかなか実現しなかったので河川は河川として整備が進んでしまい、下水道サイドとの調整が必要になったそうである。
 「いずれ下水転用する予定の川をそんなにきちんと整備していったいどうするのかね?」ということであろう。 つまり36答申の役割は河川を下水転用する手法を編み出すことではなく、河川の下水転用作戦が頓挫しそうになるのを立て直すことであったといえる。
 
 次に推測③
 これは一見単純そうに見えるが暗渠化の核心を突く理念が隠されていた。論文は36答申の委員会での発言を紹介している。かいつまんで書くとこういう内容である。

  ・水源がない中小河川の流域を下水道整備すれば河川に流れる水はなくなるはずで、
  ・にもかかわらず中小河川が必要だとすれば下水計画に欠点があるということだから、
  ・そのような「河川か下水道かわけの分からぬような存在」は残したくない。
 
 
 なるほど。「河川か下水かあいまいなものは残すべきではない」というのがこの答申の基本思想なのであった。そういうあいまいなものを残すと空堀になった川がごみ捨て場になってしまうであろうという懸念も当時はあったようである。
 論文でも触れられているが、私もこれはこれで当時の精一杯の見識であったと思う。とかくあいまいになりがちな行政が、河川か下水か白黒はっきりさせる決断をしたわけである。
 川からは悪臭がのぼり、その解決策は下水道くらいしかなく、川にごみを捨てる習慣も残っていた時代である。この決断で東京の川の多くが失われたわけだから50年経った現代では正当な見識であったとは言い辛いが、白黒はっきりさせようとした努力は認めざるを得ない。よって私の関心は別のところにある。
 
 「現在正当だと思われている見識が50年後にも正当であり続けるのは相当難しいことなのではないか?」
 例えばダム建設や干潟の干拓や海岸の埋め立ては50年前は間違いなく正しかった。今これを間違っていたと言うのは簡単だが、では現在行われている洪水防止のための巨大な地下貯留槽の建設が50年後も正しいと思われるか。 下水幹線上の人工せせらぎはどうか。これも50年後には「こんなメンテナンスのかかる電動水流を作っちゃって」などと言われているかもしれない。もし間違いだったと気づいた時に修正が利く仕組みがあったらいいのにと思う。
 
 最後に推測⑥
 開渠区間が大雨時の雨水排水バイパスになっているという点は正しかったが、もう一つ要因があったことを知った。
 36答申の委員の発言によれば、下水幹線に転用された川の下流部に開渠区間があるのは、下水処理場の位置と関係があるというのである。例えば渋谷川流域の下水は品川駅近くの芝水処理センターで処理される。だから渋谷川を浜松町の河口まで暗渠の下水幹線にして東京湾岸まで流下させてしまうと、品川まで自然に流れないという問題が出るということのようである。したがって途中の渋谷で分岐させて品川方面に向かわせる。

渋谷川並木橋以北 当初暗渠化されるはずだった渋谷川開渠最上流部
 
 しかし目黒川についてはこれでは説明がつかない。
 目黒川流域の下水は羽田空港近くの森ヶ崎水処理センターで処理される。
 だから目黒川を東品川の河口まで暗渠の下水幹線にして流下させてしまうと東品川から先が困るので中目黒で分岐させて……と思いきや、下水の「目黒川幹線」は河口直前の大崎まで目黒川に寄り添って敷設されている。
 また、神田川についても説明できない。神田川流域の下水は新宿区の神田川沿岸にある落合水処理センターに運ばれる。そうであれば落合水処理センターより上流の神田川は暗渠にして下水幹線にしてしまってもよさそうであるがそうはしていない。
 
 この点については論文では委員発言の引用という形でしか触れられておらず、真相は分からない。
 もしかしたら以前私が推測した「流域が広いほど雨水排水バイパスとしての開渠区間を長く取る必要があった」がそのまま正しいのかもしれないが、この論文を読むと別の考えも出てくる。
「昭和25年の下水道転用構想と36答申の11年のブランクが「河川か下水かあいまいな開渠区間を現状追認の河川として生き残させたのではないか」

 戦後の混乱期直後と、高度成長期前夜では時代が違う。その11年の間にドブ川の性格が変わってしまったとしてもおかしくはない。ドブ川がどのようにして暗渠化を免れたのかの検証は引き続き宿題として取っておこうと思う。


(おすすめ)
ミツカン水の文化センター 第4回里川文化塾『春の小川』をめぐるフィールドワークの報告 
渋谷川を題材に「じゃあ都市河川はどういう形に再生されるのが望ましいの?」ということが討論されている。論文の執筆者のうちの一人と、『春の小川はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史』の著者が講演しているので、この報告を読むと理解度倍増である。

(参考)
東京都河川図
東京都下水道台帳

・修正用雑記帳その15(「この水は飲料水として使用できます」関連)

ホテルの館内案内


第55章 「この水は飲料水として使用できます」関係

 このテーマにぴったりなホテルに宿泊したので、同章冒頭の画像をその時のものに差し替えた。
 今回宿泊したのは福井と金沢のホテルである。福井は築30年は超えているとみられる好物件で、予想通り飲料水シール有りであった。

 しかし金沢のホテルは開業10年未満で新しいにもかかわらず、こちらにも飲料水シールがあった。私はホテル用水を井戸水で賄うのは昭和のビジネスホテルの風習だという先入観を持っていたのでこれは意外であった。半信半疑に飲料水蛇口(水道水)と風呂水用蛇口(井戸水)を飲み比べてみると確かに味が違う。飲んでのどを通るときに、飲料水蛇口のものは「当たりが硬い」感じがするのに比べ、風呂水蛇口のものはまろやかさが感じられ、のどの奥でかすかに甘味を感じるというところが違う。

 北陸地方は太平洋側の大都市と違って水質的には恵まれているように見えるが、それでもこのような違いがあるところが新発見であった。
 ところで、ホテルのポットの湯を沸かすためなら、滅菌された水道水を使用する必要はない。重金属など有害物質の心配さえなければ、むしろ風呂用の井戸水を沸かしてお茶を入れるほうがいい味になるのではないか、との考察に至ったことも収穫であった。

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プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

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「日本のドブ川」カテゴリを廃止して「法律からアプローチする」を新設しました。ドブ川を全国レベルで捉えると、どうしても法律の話メインになるのでこのように変更しました。(H26.11.15)
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