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10 公共溝渠

公共溝渠についてはこちらもどうぞ。→30 公共溝渠と普通河川と水路はどう違うのか(前編)
公共溝渠図面
                (東京都下水道台帳図より)

 東京の区部には巨大なコンクリート水路のような都市河川はあるが、郊外にあるような幅2mくらいのドブ川はほとんどない。
 土地が過密に利用される東京では、川として残すべきところと下水道に転用するべきところを厳然と区別して、あいまいな開渠のドブ川が存在し得ないようになっている。

 しかしその中にあって天然記念物的に開渠のドブ川が残されている場所もある。
 東京都世田谷区奥沢三丁目。ここに500mほども続くドブ川がある。幅、深さともに2mほどで、水は少なく、においもなく、途中で暗渠の下水路に合流して呑川という川へと至っている。都会の住宅地とドブ川のミスマッチが素晴らしい。

  公共溝渠(開渠)

 このドブ川には名前がない。正式な河川ではないので東京都の河川図には載っておらず、下水道台帳図を見ると「公共溝渠・開渠」とだけ記されている。公共溝渠とは一体何であるか。
 「溝渠」とは水を通すための溝のことであるから、字面を追えばさしあたり「公共の水路」ということになる。その意味では農業用水路も運河も「公共の水路」であるが、下水道台帳図で見る限り、この名称は雨水や染み出した地下水を流すドブ川に与えられているようである。
 昔は川として流れていたものが生活排水路のドブ川となり、やがて下水道が整備されて用済みの空堀になり、廃止を免れた空堀にこの名が付けられた、そのように見受けられる。その出自を表すかのように、公共溝渠はたいてい古ぼけたコンクリートでできている。

 そんな懐かしい空気を漂わせる公共溝渠であるが、見つけるのはなかなか難しい。
 下水道台帳図を見ると公共溝渠と書かれた箇所を見つけることができるが、その数はとても少ないうえに、それらがすべて開渠のドブ川とは限らないからである。公共溝渠には次の3つのタイプがある。
 ・開渠のもの
 ・蓋掛のもの
 ・暗渠のもの
 開渠はいわゆるドブ川の状態、蓋掛はコンクリートの蓋をして事実上道路になっているもの、暗渠はアスファルトで舗装されて同じく道路になっているものである。

 この中でドブ川としての体裁をなしているのは開渠のものだけである。
 開渠の公共溝渠は本当に少なく、私も世田谷区内でいくつかを発見できたに過ぎない。開渠だったところもいつの間にか暗渠にされてしまったりすることもあるから油断ならない。
 しかし「蓋掛」や「暗渠」がつまらないかというとそんなことはなく、ドブ川が絶滅危惧種になってしまっている東京においては、ドブ板を渡しただけの「蓋掛」やコケの生えた薄い舗装でマンホールの密集する「暗渠」は、それだけで十分ドブ川の痕跡を関知することのできる重要なしるべとなる。
 「蓋掛」と「暗渠」は要するに道路になってしまっているのであるが、それをあえて溝渠と言い張るところに水辺の記憶を消し去ることのできない人間の不思議さを感じることができるし、かつてのドブ川が多様な構造物に化けている姿を観察する楽しみがある。東京の川は、ほかにもそんな摩訶不思議にあふれている。

 例えば下水道台帳図を見ると、「水路敷(区道扱い)」と書かれた細道を見ることがある。
 かつて川が流れていたところに蓋をして歩行者用の区道にしているものである。これも事実上道路なのであるが、登記簿の上では水路のままになっている。
 水路でありながら事実上は道路ということになると、前述の暗渠の公共溝渠と同じスタイルではないかと思うのだが、なぜか下水道台帳では扱いを分けて一ジャンルを形成している。「水路敷(区道扱い)」と「公共溝渠(暗渠)」はどう違うのかということを考えながらドブ川跡を歩くのだが、いまだに解明できない。

 摩訶不思議の極みは目黒区にある蛇崩川遊歩道である。
 ここは蛇崩川というドブ川に蓋をして、蛇崩川幹線という下水道に転用したときに作ったもので、東京によくあるタイプの遊歩道である。ちなみにここは「遊歩道」とは呼ぶものの道路ではない。法律上は公園の一種ということになっていて、そのアリバイのように遊具やベンチが置かれている。

  蛇崩川遊歩道
   蛇崩川遊歩道

 では蛇崩川は下水道に転用されてなくなってしまったのかというと、これがいまだに河川法上の二級河川として登録されていて、東京都の河川図には蛇崩川がきちんと載っているのである。地上は遊歩道、地下は下水路になっているにもかかわらず、である。
 その仕組みは複雑で、川に蓋をして地上を公園として貸して、地下は下水道に貸しているが、川はなくなったわけではない、ということになっている。この話を聞いたとき、私はその理解を超えたロジックに感心してしまった。

 川とは流れる水のことにあらず、流れる空間のことにもあらず、水が流れうる空間が連続して存在し続ける事象のことなり。なぜか突然インチキ格言風になってしまったが、蛇崩川は「川とは何か」という根源的な問いを突きつけてくる。東京にはそういう川がほかにもいくつかある。
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11 お歯黒どぶ

墨東奇譚

 永井荷風の『濹東綺譚』は大正時代の東京の玉の井、いまでいう墨田区東向島あたりにあった私娼街を舞台にした小説である。私娼街とは政府非公認の遊郭のようなもので、昭和33年に法律で禁止されるまではそういうエリアが日本の各地にあったという。
 玉の井には「お歯黒どぶ」というドブが流れており、小説では夏の暑い夜に立ち込めるドブの臭気や蚊のうなる声が活写されている。「お歯黒どぶ」とは妙な名前であるが、ドブの水がお歯黒のように真っ黒だったことから付けられた名前のようである。
 水が真っ黒ということは、ドブの中で嫌気性細菌が硫化水素を発して真っ黒な硫化鉄混じりのヘドロを産出している状態だから、相当に汚染された状態といえる。私はこの「お歯黒どぶ」が気になった。

 気になったのは、同じ名前のドブが隅田川の川向こうにある吉原遊郭にもあったからである。
 吉原遊郭は江戸初期の1657年、幕府の許可を得て浅草寺の北方に設置された。広さは約9ha、長方形の独立した街区で、周囲を堀で巡らしてある。この堀が吉原の「お歯黒どぶ」で、いまは暗渠になっているがドブの護岸の跡などはわずかに見ることができる。

 なぜ遊郭(と私娼街)にはお歯黒どぶがあるのであろうか。
 私が吉原のお歯黒どぶを知るきっかけとなった時代小説からは、風紀上の理由から遊郭を周囲の街と切り離して管理するためといったような事情が窺えたが、それがどうして真っ黒なドブでないといけないのだろうか。例えば高い塀を巡らすといったことも考えられたはずだし、堀を作るにしても水を真っ黒にする必要はない。
 もしかするとお歯黒どぶは意図的に作られたのではなく、もともと遊郭というものが真っ黒なドブが生じてしまう地形的な要因を抱えているのではないか、私はそう考えた。

 濹東綺譚に出てくる玉の井は、隅田川東岸の水田地帯を埋め立てた歓楽街で、お歯黒どぶは水田の小川の成れの果てと考えられる。
 一方、吉原は浅草寺の北の湿地帯を埋め立てて作ったもので、吉原とは「葦の原」に通じる。遊郭は湿地帯に作られることが多く、吉原ができる前はいまの中央区日本橋人形町の低湿地帯にやはり吉原という遊郭があった。日本橋の吉原が浅草寺の北に移転したのは、江戸の市街地が拡大して日本橋が江戸の真ん中になってしまったからである。

 遊郭が低湿地帯にできるのは、次のような要因があると考えられる。
 ・風紀上、都心から離れた場所につくりたい。
 ・まとまった土地が必要である。
 ・住宅地から離れ、かつ住宅地に向かない土地でないと確保できない。
 これらを満たすのが低湿地帯を埋め立てた土地ということになる。
 湿地帯を埋め立てると、そこを流れていた水流を整理して排水路に仕立てる。しかしそれは地形的な要因でさらさらと流れずに澱み、ドブ川化する、このようなことではないだろうか。

 濹東綺譚の舞台となったあたりを歩くとドブ川こそないものの、路地裏をすりぬけて流れていたドブ川の跡を今でもあちこちで目にすることができる。ドブ川を暗渠にして作られた路地は、密集した古い住宅地をすり抜けて続き、この町に迷宮のような魅力を添えている。ドブ川が遊郭に付き物であることを荷風は知って頻繁に小説に登場させたのだろう。

(参考)
濹東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)

図説 永井荷風 (ふくろうの本/日本の文化) 表紙裏の詳細な「玉の井概要図」で当時の様子が分かる。

12 どぶ板通り商店街

どぶ板通り

 どぶ板通り商店街は神奈川県横須賀市の米軍基地の正門近くにある。
全長約500m、かつて米兵向けのバーが立ち並んでいた通りで、今でも「アメリカンな横須賀」を味わえる一角である。私がこの商店街に関心を持ったきっかけは、当然そのユニークな名称である。

 ところがこの商店街を訪れて私はがっかりした。この商店街にはドブ板もドブ川もなかったからである。広い路面はカラータイルで舗装され、ドブ板を模した縞模様のデザインが施されているだけである。さらにがっかりなことに、商店街の名称の由来となったドブについての資料が乏しい。かろうじて分かったのは次のようなことである。

・かつてここには道の中央にドブが流れていたが、通行の邪魔なので軍の払い下げの鉄板を敷いた。
・明治38年の地図にはすでにドブの姿はなくて「どぶ板」の名称がある。

 どぶ板通り商店街はドブにフタをしてからすでに100年以上も経った商店街のようである。
 100年以上も「どぶ板」などという妙な名前を愛用しているわりに、そのドブの正体が気にとめられていないことに驚きというか無頓着さを感じた。どぶ板通りが語られるときテーマになるのは、きまって店の紹介や、そこに関係したミュージシャンなどである。
 
 もっとドブのことを気にしてくれてもいいではないか。
 ドブというものはいつもそうなのだ。「それは金をドブに捨てるようなものだ」とか「ドブ板選挙」などと軽々しく使われる割に、その正体はまるで存在しなかったかのように無視され続ける。どぶ板通り商店街には特にそれが現れている。
 思わず憤ってしまった私であるが、やがてそれが収まる日が来た。何度目かのどぶ板通り来訪で、ついに本物のドブ板に遭遇したからである。
 どぶ板通り商店街から少し離れたさいか屋というデパートの裏の道を歩いていると、細く薄暗い細道が交差しているのが見えた。細道は幅2mほどで、路面は周りより一段低い場所を通っている。その路面は、と見ると古ぼけた巨大なコンクリートのドブ板であった。

ドブ板細道
ドブ板細道

 私はその細道に入り込んでドブ板を踏んでみた。
 ドブ板は頑丈なつくりで、踏んでもボコボコと音がしたりはしなかったが、ドブ板にあけられた穴からはドブの水面が見えている。こういうドブ板は今は珍しい。ドブ板細道の周りには小さなスナックやバーが立ち並ぶ。
 ちなみに昭和30年代の地図を見ると、当時も同じようにスナックや旅館が立ち並んでおり、昔からこんなドブ板細道だったようである。
 
 ドブ板細道を進んで行くと、大通りに出た。
 バスの行き交う通りの向こうを見ると、例のどぶ板通り商店街が始まっていた。
 つまりこのドブ板細道のドブはどぶ板通り商店街を流れていたドブなのであった。まさに正真正銘「どぶ板通り」である。しかもこっちの方があやしくて雰囲気がある。

 さて、このドブは元はどんな川だったのであろうか。
 このドブはもともと川だったはずだから、川が流れてしかるべき地形的要因があったはずである。
 残念なことに今の横須賀は、元の地形が分からないほどに海面の埋め立てが繰り返されたので、このドブの地形的な関係が推測できない。なにしろ今商業地や米軍基地のある平地部分は、ほとんどが明治以降の埋立地なのだ。 しかし江戸時代の絵図を見ると、どぶ板通りのドブのポジションがはっきり見えてくる。
 
 江戸時代の横須賀は、海に迫る急峻な丘(現在の横須賀中央駅裏の丘)、そこから東京湾に向かって延びる細長い岬(現在の米軍基地)、そして丘と半島の間にある細く狭い平地(現在の本町)から成っていた。この平地の部分は「横須賀」という浜(現在の国道16号線小川町交差点あたり)に向かって開けていて、漁村の集落がへばりついていた。

 どぶ板通りのルートはこの細長い平地の真ん中を貫いている。現在のどぶ板通りの下流側は、前出のあやしげな細道となってしばらく続いた後、国道16号線にぶつかって姿を消すのだが、ここが江戸時代の横須賀の海岸線にあたる。つまりどぶ板ルートのドブはここで海に注いでいた。
 重要なのはここからである。明治7年、ここに小さな港が作られて港町・横須賀の端緒が開かれた。

 港を作るのに必要な条件は3つある。波が穏やかな入江であること、水深が深いこと、そして船や物資を引き上げる緩い傾斜の平地があること。
 港には運んできた物資を引き揚げる荷捌場や、船ごと引き揚げてるスロープが必要である。面白いことにこれが決まって入り江の小さな川の河口の横に作られる。なぜ河口の横に港を作るのか。

 入江の川の河口は、周りを急峻な岬に囲まれながらも小さな平地を作ることが多く、これが前述の3条件を満たすからである。
 たいていの港町は入り江の河口の小さな港から出発し、その背後が「元町」と呼ばれる商業地となる。横浜や神戸のような大型港も、大きな船が着けるように後から入江の外側に大規模な埠頭を追加建設していっただけで、もとは入り江の河口付近の港から出発した。
 
 横須賀の場合はどうか。横須賀は軍港があるので少し事情が特殊(※)であるが、明治7年に作られた港はどぶ板ルートの河口に位置し、その背後に元町(現在の本町)が作られている。位置から察するに、どぶルートを流れていたであろう川が「入り江の河口」の役割を果たしているのではないか、私はそう考えた。

旧小川港
かつて港だった地点(手前からヤシの木のあるあたりまで)から、ドブ板細道の「河口」(中央のグレーのビルの左端)を見る
 
 考えた、と若干歯切れが悪いのは、証拠がないからである。
 横須賀には江戸末期に描かれた絵図が何枚かあるが、そのどれを見てもどぶ板通りの場所に川はない。絵図には相当小さな川であっても姿が描かれるはずであるから、描かれていないということは実際には存在しなかった可能性もある。
 しかし丘と岬の間の低地という地形的な条件を見れば、そこに小さな川が流れていたと考えるほうが自然だし、絵図には書いてなくとも実際にドブ跡はそこにある。
 そのようなわけで若干疑問符は付くが、どぶ板通りを流れていたドブは、港町横須賀のルーツの港のそのまたルーツであった、そのように言ってみたいと思う。

 軍港として明治の初期から栄えた横須賀はかなり早いタイミングで土地が不足し、このドブも早い段階で暗渠にされたと考えられるが、証拠も不確かでなおかつ暗渠化されて100年以上経ったドブの名が生きているのは、横須賀を産んだこのドブ、いや川に敬意を表してのことなのではないだろうか。

大正4年横須賀市全図
横須賀市全図(大正四年横須賀市統計書附録 横須賀市中央図書館蔵) クリックすると拡大します
北に伸びる半島が現在の米軍基地、その南東に旧港、どぶ板通りは「元町」の町の字のあたりを旧港に向かって走る。半島の西の湾は軍港、その西に横須賀線横須賀駅。


※今の米軍基地のある場所(横須賀市泊町)には昔、水深の深い静かな入り江があり、これが軍艦に適していたことから軍港として利用されたという。

13 ウンコ問題

お米

 ドブ川雑記帳はドブ川の話であって下水道の話ではないのだが、下水道の仕組みがわかるとドブ川探索がさらに面白くなるので、少々脇道に逸れることを許してほしい。

 下水道は子供の社会科見学にうってつけのテーマらしく、下水道資料館などに行くと小学生向けのパンフレットが山ほど用意してある。ドブ川好きの大人のためのパンフレットなどというものはないので仕方なくそれを読むと、そこにはたいていこういうことが書いてある。

「コップ一杯のコメのとぎ汁を薄めて魚が棲めるようにするには、ふろ桶2杯分の水が必要です。コメのとぎ汁は庭にまいて肥料にしましょう」

 同様に牛乳コップ一杯はふろ桶11杯が必要で、マヨネーズ大さじ一杯は13杯必要などといったことも書いてある。これを読むと「これからはコメをといだ水は植木鉢に撒こう」などと思うのだが、私にはどうも引っかかるところがあった。そこである下水処理場の人に質問をぶつけてみた。

「ウンコやオシッコのことはどうして書かないのですか」
 下水の主成分はいうまでもなく人間の排泄物である。だからこれに触れずにコメのとぎ汁あたりを論じたところで、周辺部分をつついているに過ぎないのではないかと思ったのである。
 するとこういう答えが返ってきた。

「そういったものは確かに「多く」て「濃い」のですが、まず努力できるところから、ということでして・・・・・・」
 住民に対して「ウンコやオシッコをするな」とは言えない、ということであるらしく、言われてみれば当然の話ではある。しかし話を聞いていると、下水処理場の敵はウンコではないらしいことも分かった。下水処理場はもともとウンコを浄化するための施設なので、それらがいくら流れて来ても問題ない。敵は別の方角にあった。

「油をよく使う飲食店が多い地域はね、すごいんですよ」
油をよく使う飲食店とは中華料理や油ギトギトのラーメン店などであろうか。
 そういえば横浜などでは中華街の排水が流れる下水管は詰まりやすいという話を読んだことがある。下水管に油分が入るとコレステロールのように付着して詰らせた挙句にはがれて、巨大なごみとなって浮遊するという。
 下水道の真の敵は一にも二にも油で、だから下水のパンフレットにはしつこく「油を流しに捨てないで」と書いてあるのだ。ほかにも洗髪で流れてきた髪の毛もものすごい量なのだという。
 これからはラーメンの汁が残ったら野菜炒めの味付けにでも使って、風呂場の排水口には髪の毛取りの網を付けることにしよう。
 
 もう一つ聞いてみた。
「下水処理場から放流される水は微妙なにおいがありますよね。あれは薬品のにおいなのですか」
 下水処理場で浄化された水は海や川に放流する前に殺菌しなければならないので、消毒薬として塩素を投入する。しかしそれは放流水のにおいの要因としてはわずかなもので、大部分は取りきれなかったウンコやオシッコのにおいなのだそうだ。なんだそうだったのか。

 しかしこの問題は根深い問題を感じさせる。それは、取りきれないのはにおいばかりではないからだ。人間のオシッコの中には「尿酸」と呼ばれる物質が大量に含まれていて、対外に放出されるとアンモニアに変わる。悪臭成分の原因物質としてあまりに有名なこの物質はさらに下水中で「硝酸態窒素(NO3-)」という物質に変化する。これが普通の下水処理では除去しきれない。

(オシッコの仕組み)
オシッコの中の尿酸 →体外でアンモニアに変化 →下水中で硝酸態窒素に変化 →除去しきれずに海中へ →プランクトンの餌になる →大増殖して赤潮になる →海中が酸欠になる →プランクトン死滅 →嫌気性細菌が登場する →硫化水素発生


 下水処理場はおおざっぱな言い方をすれば、有機物で濁った水を透明にするための施設であって、水に溶け込んだ無機物、例えば食塩水の塩分とか医薬品成分とか硝酸態窒素といったものを除去するのは得意ではない。
 下水処理場に流れてくる下水はBOD100mg/l以上という猛烈に汚い水(※)だが、下水処理場はこれを5mg/lくらいまで浄化する能力をもっている。BODとは、「ある水の中に含まれている有機物を、生物が分解するとしたらどれだけの酸素が必要か」という尺度で表す単位で、つまり下水処理場は有機物を取り除く能力がとても高い。
 その一方で、硝酸態窒素に関しては50%くらいしか取り除けない。ハイテクを駆使した最新型下水処理場でも70%取り除ければ優秀なほうである。
 
 ところがオシッコが昔肥料として使われていたことからわかるように、硝酸態窒素は栄養分に富んでいる。

(オシッコが肥料になる仕組み)
オシッコの中の尿酸(生物にとって無毒)→体外でアンモニアに変化(有毒)→肥溜めで発酵させて硝酸態窒素(無毒)に変化させる→畑に撒く→根から吸収(→しかし撒き過ぎると地下水に溶けて有毒に)
 

 これを例えば東京湾に流すと、プランクトンの格好のえさになって彼らが大繁殖し、いわゆる赤潮状態になる。プランクトンは酸素を消費して生きているので、大発生すると海中に溶けている酸素が不足して魚が死に、プランクトンも共倒れで死ぬ。
 
 その後に登場するのが酸素を使わなくても生きられる「嫌気性細菌」で、彼らが出す硫化水素で悪臭発生と相成る。さらに悪いことに、東京湾は埋立てすぎて水の流れが悪くなったりして、環境を浄化する自然のシステムに欠けている。例えばここに自然の干潟があれば、嫌気性細菌を繁殖させずに有機物を分解することができるのだが、東京湾にはそれがほとんどない。

 このことは夏場に東京湾の遊覧船に乗ると実感できる。下水処理場のようなにおいが濃縮されて潮風に乗って鼻腔をノックアウトする。田舎のドブ川は、その場を離れればにおいを嗅がずに済むが、東京湾の場合は面的な広がりで襲ってくる (と言っても自分で乗船券まで買って近づいているのだが)。

  夏の東京湾(日の出桟橋)
  夏の東京湾(日の出桟橋)

 東京の下水処理場は、ハイテクを駆使して必死に浄化しているようだけれども、やはり1000万人のオシッコの硝酸態窒素の半分(ややこしいな)を取り除けずに海に流しているという事実は重い。かといって私たちはオシッコをしないわけにもいかない。一体どうしたらいいんだ。
 
 このように考えると暗くなるが、これを逆に考えてみると面白い。
 ①アンモニア(硝酸態窒素)は赤潮プランクトンを増殖させるが、同じ原理で畑の野菜も成長させる。
 ②そのため、昔から硫酸アンモニウムという物質が肥料として作られている。
 ③硫酸アンモニウムは硫酸とアンモニアから作る。
 ④硫酸は、下水管のなかで発生した硫化水素がある細菌に分解されたときにできる物質である。
 ⑤アンモニアと硫酸が下水から発生するのなら、それを使って肥料を作って一儲けできるのではないか。
 
 私はこの天才的なアイデアに興奮したが、結論からいうと下水から硫酸を取り出すのは難しいらしく、こういう製法での肥料は作っていないようであった。
 しかしアンモニアを取り出すのは技術的に可能で、愛知県豊橋市の処理場では、下水の処理過程で出る硝酸態窒素から肥料を作っていた。しかも一儲けしないで無料で配っているという。オシッコはちゃんと肥料になっていたのであった。いつの間にかウンコ問題がオシッコ問題になってしまったが、とりあえずよかった。

(H22.9.25 アンモニアに関する記述が間違っていたので修正しました。)

※昭和36年の隅田川の水質がBOD38mg/l。BOD100mg/lを超える川は、小河川などで局地的にはあったようである。

参考ページ
東京都水再生センターのページ(各センターをクリックすると流入する下水の水質と処理後の水質が分かるようになっている)

横浜市のHP(微生物の作用で、アンモニア→硝酸→窒素という手順で下水中のアンモニアを除去する仕組みを解説)

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プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

カテゴリ
「日本のドブ川」カテゴリを廃止して「法律からアプローチする」を新設しました。ドブ川を全国レベルで捉えると、どうしても法律の話メインになるのでこのように変更しました。(H26.11.15)
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