スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

・続編(ドブ川雑記帳 川崎編)のおしらせ

  ドブ川雑記帳はいちおう18話完結のつもりだったのですが、その後いろいろギモンが発生してしまったので、続編を掲載します。
  名称は「ドブ川雑記帳 川崎編」で、毎週土曜日に1話更新、全1011話の予定です(数え間違えてました。すみません)。
  8月13日(土)のスタートを予定しています。(2011.8.7修正)
  更新期間中(8月~10月頃)は、記事の並びをひっくりかえして新着順に並べます。
  ちょっと画面が混乱しますが、ご容赦ください。

  「ドブ川雑記帳川崎編」予定記事(章番号は通番です)
   第19章 遊園のラビリント
   第20章 ボットン便所の終焉
   第21章 遊園にはなぜドブ板水路が残っているのか
   第22章 下水管とドブ板水路が併存する仕組み
   第23章 ドブ川の終焉
   第24章 ベランダ洗濯機
   第25章 雨の日の生下水
   第26章 単独浄化槽の問題
   第27章 窒素の問題(上)
   第28章 窒素の問題(中)
   第29章 窒素の問題(下)

   二ヶ領用水円筒分水
スポンサーサイト

19 (ここから川崎編) 遊園のラビリント

 川崎市の下水道普及率は99.3%である。
 このような都市には、強烈なにおいを発するドブ川は存在し得ない。
 よってそういう川、私がよぶところの「古典派ドブ川」の生態を観察したい時にはもっと普及率の低い市に行く。だからそんな川崎市で古典派ドブ川に遭遇した時はとても驚いた。

 川崎の市域は多摩川沿いに細く広がっている。
 ここに多摩川低地という川沿いの細長い平野があって、この平野を貫流するように、つまり多摩川に並行するように二ヶ領用水という人工の用水路がある。これは上流で多摩川の水を取水して多摩川低地の水田を潤すためのもので、江戸時代に作られた。

 「水がほしければ、そばに流れている多摩川の水を横に引っ張ってきて使えばいいんじゃないか」
 
 私は長らくそう思っていたのだが、それは浅はかな考えというもので次のような事情でできなかったようである。
 
 ①多摩川下流部の水は満潮時に海水が混入するので農業用に使えない。特に海岸部の新田で使えない。
 ②川は平野の一番低いところを流れているので、そこから横に水を引こうと思っても水は流れない。
 
 よって江戸幕府は標高の高い多摩川の川上で取水してそこから高低差をコントロールしつつ、川下の川崎の隅々まで水を流す二ヶ領用水を作った。なるほど。
 
 川崎市内ではこの二ヶ領用水の支流が分岐して網の目のように発達したあげくに、それらが都市化で一気に不要になって、暗渠にされたり、開渠の水路として残されたりしている。
 このような現象は東京でも同じように起きたけれども、川崎の都市化は東京ほどシビアではなかったので、東京のように用水網が徹底的に抹消されることはなかった。東京で暗渠にされるような川でも川崎では開渠として残り、東京でアスファルト道路になってしまうような細流も、川崎ではフタをしただけの「ドブ板歩道」として痕跡を残した。
 したがって川崎市内には膨大な数の用水路の遺構があり、特に市街化の遅かった北部の多摩区に多く残されている。そのことをその方面に詳しい人(※)に教えてもらったので、私も見に行ってみた。

 二ヶ領用水路網
 二ヶ領用水路網(用水沿いの久地円筒分水に掲げられていた案内図の画像に加筆。クリックして拡大して下さい)

 ドブ板水路
 多摩区に多いタイプの用水路の遺構
 
 小田急線の向ヶ丘遊園駅を降りると、既に駅前にいくつものドブ板細道がある。まるでドブ板細道のラビリントである。
 適当にそのうちのひとつを選んで歩くと、水路にフタをしただけの1m幅くらいの路地が続き、しばらく行くと幅が広くなってフタの一部がグレーチング(金属製の格子)に変わり、そこから下水のにおいが立ち上ってくる。おやおや、と思う。
 
 現代の下水路は基本的に地下に密閉されている。言うまでもなく下水臭が漏れないようにするためで、メンテナンスはマンホールのフタを開けることによって行う。
 下水臭が地上に漂ったとしてもそれは設備の不具合による不測の事態であって、はじめから下水路のフタを通気性のあるグレーチングにするということはしない。通気性のあるフタを使うのは、雨水用の側溝や農業用水路などきれいな水が流れる水路だけである。
 
 不思議に思いつつ下流に向かって歩くと、フタは再びグレーチングのない密閉式に変わってにおいはしばし途絶えるが、しばらく行ったJR南武線の宿河原駅の近くでこの水路が突然開渠になる。その水質やいかに、と覗くと濁った水がベギアトアの繁茂する川底をゆっくりと流れ、硫化水素臭がしていた。川崎でこれを見るとは。

 この水路はその先で二ヶ領用水宿河原線という水路に合流しかかるが、二ヶ領用水宿河原線を流れている水は多摩川から取水したきれいな水なので、これに汚水を合流させるのは躊躇われたらしく、宿河原線の水路に並行する暗渠が作られて何キロか続き、その先の下流でこっそり合流していた。

 私はこの汚水が何者なのかまったく理解できなかった。下水道普及率99.3%というのは、発生する下水のほぼ全量が下水管を通るという意味であり、開渠の水路や側溝に下水が流れることはほぼないという数字のはずである。
 川崎市の下水道台帳を見ると、私が見たドブ板水路は下水路ではなく、下水路はドブ板水路の1mばかり横の地下に埋設されている。
 するとこのドブ板水路はやはり二ヶ領用水のネットワークを形成する農業用水路だろうか。下水管が横に埋まっているのに、そういう水路に汚水が流れたりするものなのだろうか。まだ信じがたい。

ベギアトアA
白濁した水路が二ヶ領用水に接近する場面(左が二ヶ領用水宿河原線、右が件の水路)
 
ドブ板水路模式図

 
 私がドブ板の上でモヤモヤ考えていると、ちょうど近くで下水工事をしているのが目に入った。その工事のおじさんに恐る恐る聞いてみたところ、次のようなことを教えてくれた。

 ①われわれは下水管を太くして敷き直す工事をしている。
 ②そこに蓋掛の水路(私が悩んでいた水路の至近にも別系統のドブ板水路があった)があるが、それは下水路ではなく、昔からの「水路」なのでそこには接続しない。
 ③下水管を敷くには深さ2mのその水路の下をくぐらせるために深さ5mの穴を掘らなければならないので結構大変である。
 
 ずばり解明とはいかなかったが、やはり遊園ラビリントのドブ板水路は下水路とは厳然と区別された水路だということはわかった。では何の「水路」か。

 二ヶ領用水沿いに歩いて行くと「二ヶ領せせらぎ館」という資料館があったのでそこで資料を見せてもらうと、ドブ板水路はやはり二ヶ領用水の支流の農業用水路であることがわかった。
 現代の二ヶ領用水には農業用の水利権はほとんど設定されていないのようなので、汚水が流れてもたぶん農業に支障が出るということはない。けれども、下水管と並行して汚水の流れる水路があるということはどういうことなのか。私のギモンは深まってゆくばかりなのであった。

(この章は平成22年冬の探索をもとに記述しています。「20 ボットン便所の終焉」 へつづく。)


※lotus62さんの「東京Peeling!」の二ヶ領用水レポートがきっかけとなり、庵魚堂さんの「世田谷の川探検隊」の二ヶ領用水のページで詳細を知りました。二ヶ領用水を扱った記事はほかにも多くの方がブログ等で扱われており、ここには全部を挙げられませんが、この場を借りて皆様にお礼申し上げます。

参考文献: 下水道経営のあらまし(川崎市上下水道局)ここの7ページに下水道普及率が載っている。
         川崎市公共下水道台帳施設平面図インターネット提供サービス(なかなか使いやすい)
おすすめ: 川崎市市民ミュージアム企画展「二ヶ領用水竣工400年記念 二ヶ領用水ものがたり」
       (企画展は終了したが展示図録は同ミュージアムのWEBショップで買える)

20 ボットン便所の終焉

 下水道の普及した都市に住んでいる人がドブ川を見ると、「なんだいまだにこんなものがあるのか」と思うかもしれないが、下水道を敷いてドブ川を駆逐するというのは、住民にとっては結構大変な事業である。
 何がどう大変なのか。
 
 川崎市の下水道は平成バブル期に精力的に作られた。
 下水道普及率で見るとバブル前の昭和62年には57.0%だったものが、バブル崩壊後の平成3年には77.6%、平成6年には91.4%と急上昇する。普及は南部の川崎区から始まって、中部の中原区、北部の多摩区などへと進んでいった。
 
 これは数字で見ればすばらしい近代化だが、私は中原区の下水道普及の最終段階の頃(昭和50年代)に当地で小学生時代を過ごしたので、その頃のスッタモンダを少し覚えている。
 
 中原区は細長い川崎市の真ん中に位置している。
 武蔵小杉という近年急速に再開発された街を抱えているが、もともとは水田の広がる低地を昭和20年代に住宅地化したところなので、農業用水路の遺構だらけであった。
 用水路の遺構はたいてい幅1mくらいで、ガタガタするドブ板がはめられて人一人が通れるくらいの抜け道として使われる。ドブ板のすきまからはほんのり下水のにおいがしたが、フタをしているためかそんなにくさくはなかった。昭和50年代にもなると中原区もだいぶ下水道が整備されていたので、それほど多くの下水が流れなくなっていたのかもしれない。
 
 いっぽう、開渠のドブはくさかった。近所のアパートと寺の境内の間を流れるそのドブはいつも黒く澱んで蚊が多かった。この水はおそらく、生活排水というよりは雨水が滞留したようなものではなかったかと思う。アパートに住む友達は、時々ドブに消毒薬を撒くのだと言った。古地図を見るとこのドブも元は二ヶ領用水の支流の農業用水だったようである。
 
  中原区の二ヶ領用水
  (参考)いつもながら二ヶ領用水円筒分水の案内図(クリックで拡大)


 我が家の一角にはまだ下水道が来ておらず、昭和33年築の我が家は昭和59年に引っ越すまでボットン便所(※)であった。この便所はとにかくくさく、目を刺すようであったが、ドブのにおいとは異なっていた。
 おそらくボットン便所の目を刺すようなにおいはアンモニア臭であり、ドブのにおいは硫化水素臭であったのだろう。
 便所以外の生活雑排水は家の裏の細いドブに垂れ流しで、宿題の水彩画を描いた絵の具の水を流すとその色の水が出た。ドブを覗き込むとイトミミズなどが見えたが、ドブ自体が幅20センチくらいの細いものだったのでくさいと思うことはなかった。その排水がどこに流れていたのかは知らない。かつての農業用水路や道路側溝を伝って二ヶ領用水や多摩川に流れていたのではないかと思う。

 近所の友達の家はほとんど水洗であった。
 風呂無しアパートであってもトイレは水洗だったし、小学校も昭和55年頃にはボットン便所がなくなった。下水管が延びてきたところから順次水洗化されていったのであろう。

   ボットン便所断面図 我が家のボットン便所断面図(筆者の記憶による)

 
 我が家のトイレを水洗にしようかという話が出たのは、昭和57年頃だったと思う。ようやく市の下水管が家の前まで延びてきたからである。
 ところがそのための工事費用が意外と高額であることが判明する。
 我が家が建ったのは昭和33年。便所が水洗になることなど想定していなかったそうで、配管スペースのとれない敷地の奥に便所がある。したがって工事費がかさむ。さらに便器の取替えや便所の改築、便槽の撤去の費用もかかる。そうやって高額の工事をしたとしても我が家は築24年でもう相当に古かった。
 
 そこで面倒になった私の親はニュータウンへの引越しを決めてしまう。
 コストを考えると、下水道への接続というのは正直あまりやる気の出ない設備投資なのであった。ボットン便所が水洗便所になるという劇的なメリットがついていてさえそうなのだから、現代の浄化槽付きで既に水洗になっている家がわざわざ下水道に接続したがらないのは、気持ちとしては分かる。
 
 昭和57年の川崎市の下水道人口普及率は44.6%。この時期を境に川崎市は、北部市域の下水整備に乗り出し、合流式(雨水と生活排水を混ぜて下水処理場に流す)から分流式(雨水は川に流し、生活排水だけを処理場に流す)に転換していった。
 
 30年経って、今それらの場所を歩くと次の点が変わっている。
  ・用水路遺構のドブ板細道のいくつかがアスファルト舗装されて、地下に下水管が埋まっている。
  ・私の住んでいた家の裏に下水管が通った。
  ・アパート裏の開渠のドブにフタがされた。
 いっぽう、他のドブ板細道は昔のまま放置されて残っていて、そのあたりの風景は昔と変わりがない。
 フタの隙間から中を覗くと、下水管は埋まっておらず、水が少したまって駄菓子の袋などが落ちている。おそらく雨天の時だけ水が流れているのであろう。
 こうしてみていくと、中原区内の水路は、

 ①二ヶ領用水の支流として農業用に利用(戦前まで)→②宅地の排水路として利用(昭和50年代まで)→③一部を下水路に転用してアスファルト舗装→④その他は雨水を流すドブ板細道として放置(現在)

 という変遷を辿っていることになる。この変遷パターンが遊園ラビリントの汚水のなぞを解く鍵になる。(つづく)


※水洗式でない汲み取り式便所の俗称。浄化槽付きの水洗便所を「汲み取り式」と呼ぶ人もいるので、ここでは俗称のボットン便所を使った。ボットン便所における最大の恐怖は、においでも巨大な穴でもなく害虫の存在であった。

参考文献:世田谷古地図(昭和4年当時)世田谷区都市整備部地域整備課が平成19年に発行して販売しているもの
       論説「都市経営への参加の一形態」 奥村□一(□は「直」の時の下に「心」)
      横浜国立大学学術情報リポジトリ所蔵(川崎市の下水道の普及の経緯が詳細に書かれている)

21 遊園にはなぜドブ板水路が残っているのか

 多摩区の遊園ラビリントと中原区の小杉あたりでは、同じ川崎市でも用水路遺構の風景が明らかに異なる。かつて二ヶ領用水の支流網が張り巡らされていたという点では同じだが、次の点が違う。

 ・遊園ラビリントでは、かつての用水路が蓋掛されただけで比較的原形をとどめている。
 ・中原区小杉では用水路の多くが下水路に転用されて地上部がアスファルト舗装の道路となり、蓋掛しただけのものはあまり残っていない。

 遊園ラビリントでは、ほとんどの用水路が「使われなくなった農業用水路」として蓋掛の状態で存置されている。これはひとつには、遊園のあたりでは近年まで農業が盛んだったから農業用水路も残されたが、中原区小杉は戦後すぐに農業が壊滅してしまったので下水路への転用がやりやすかった、ということを表わしている。

 昭和50年代、小杉では植木畑と竹やぶが少しあっただけで農地は皆無であった。
 遊園はというと、現在、向ヶ丘遊園の駅前こそ農地はないけれども、今でも少し駅から南に行くと梨畑が点在し、もっと先に行くと農地の区画整理が昭和37年に完了したことを示す碑がある。今は水田はなく、梨畑もそれほど水を使わないが、この碑から察すると昭和40年代頃までは水田用の水需要があったとみえる。

 二ヶ領用水分水開渠 わずかに開渠で残された分水もある。奥には古い水門も見える。


 しかしそうはいうものの、今の遊園ラビリントの用水網の充実ぶりは、農業の実態に比して過分に見える。
 昔はともかく現在は梨畑しかないのに、用水だけはちゃんと流れて機能している。個人的には「よくぞここまで水路を残してくれた」と思うが、「そんなに必要だったのか?」という感がないでもない。もうちょっと粗雑にアスファルト舗装などされていてもおかしくないのになあ。そんなことを思っているうちに私は、「ザリガニ田んぼ」のことを思い出した。

 私が中原区の小学校に通っていた頃、ザリガニ取りのできる水田というのがあった。その水田は学区の端のほうにあり、住宅に囲まれて小さな水田が一枚だけあった。この水田は学区唯一のザリガニ場として大変な希少価値で大人気だった。
 当時は知らなかったが、この水田はそばを流れる「井田掘」という二ヶ領用水の支流から取水していたという。その農家は住宅密集地を流れてくる井田掘の水質に大変気を遣っていた、とある本(※1)に記されている。
 この水田は今はもうないが、井田掘はなんとまだ当時の姿のまま蓋掛で残されている。

 農地の中で一番都市化に耐性があるのは、生産物の単価が高くて地価上昇に耐えられる植木畑や果樹園、次が花卉、蔬菜畑、一番耐性がないのが水田である。水田はきれいな水を供給する用水網と、余剰水を排水できる悪水網が維持できないと真っ先に消滅する(※2)。
 言い換えると、少しでも水田を維持しようとする農家がいる限り、用水路は死守されようとする。その時、水路にフタがされ始める。フタをする理由は、落ちると危ないとか、道が狭いので歩道にしたいとか、用水路にごみを捨てられたくないといったところだろう。

 さて、都市化がさらに進んで最後の水田がなくなっても用水路はすぐに撤去されない。   
水の流れる場所がいきなりなくなると困るし、構造が堅牢なのでそのまま歩道として使えるので撤去する必要がないというのもあるが、遊園の場合には次のような要因も考えられる。

・中原区小杉あたりでは用水路を密閉して下水道に転用し、汚水と雨水をそこに流す方式(合流式下水道)を採用したが、
・多摩区の遊園あたりでは汚水は密閉した汚水管、雨水は雨水管を作らずに、とりあえず既存の密閉しない蓋掛の用水路に流す方式(分流式下水道で汚水管だけ先行建設)を採用した。
 
 このような違いが生じたのは、中原区で下水道を敷設した時期は合流式が全盛だったが、遊園ラビリントで敷設した時期は分流式(の汚水管だけ建設)全盛の時代であったためである(※3)。

 まとめると、

 ・遊園ラビリントは水田がなくなる時期が遅かったために水路も廃止を逃れたうえ、
 ・下水道の敷設時期も遅かったが、
 ・それが下水道の敷設方式の変化とマッチし、
 ・雨水排水路の役割を与えられて撤去(密閉化)を免れた。

 そういう経過があったということが言えるのではないだろうか。
 しかしこれは水路が後年まで残るといううれしい成果を生む反面、それゆえの「望まなかった変質」を生む可能性もはらんでいる。 
   (「22 下水管とドブ板水路が併存する仕組み」につづく)


小杉と遊園


参考文献 
※1二ケ領用水400年 よみがえる水と緑 (神奈川新聞社刊)
 ザリガニ田んぼの所有者には小学生は迷惑だったことをこの本ではじめて知った。そうだろうなあ。
 この本は新刊は買えないようですが、川崎市立多摩図書館でも読めます。遊園ラビリント探索のついでにどうぞ。

※2「関東東山農業の動向と展望」農林省農林水産技術会議事務局(昭和39年刊)
 この書籍によると、関東には水田から水が抜けにくい排水不良田が多く、これが水稲の生産性を悪化させる、とあり、水田には給水よりも排水の方が重要であることがわかる。

※3川崎市公共下水道台帳施設平面図インターネット提供サービス
 川崎市の下水道が昭和60年(1985年)あたりを境に、また市域の真ん中あたりを境に合流式と分流式にくっきり分かれていることがわかる。
 また、昭和40年代であっても、宮前区や麻生区の丘陵部の新興住宅地では開発と同時に分流式の下水道を敷設する作戦を採っていたこともわかる。

ブロとも申請フォーム

リンクとお知らせ
リンク、引用は自由です。連絡はご不要です。引用される場合は引用元として「ドブ川雑記帳」とお書きください。
最新記事
(もっと古い記事は目次のページからどうぞ)
プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

カテゴリ
「日本のドブ川」カテゴリを廃止して「法律からアプローチする」を新設しました。ドブ川を全国レベルで捉えると、どうしても法律の話メインになるのでこのように変更しました。(H26.11.15)
調べたいキーワードで検索
最新コメント
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。