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33 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(前編)

 野田処理場入口

 『横浜下水道史』は地味なタイトルのわりに結構面白い本である。
 もともと鶴見の河童沼を調べるために読んだ資料本であったが、昔の横浜のドブ川のバラエティに富んだ汚れ方や埋め立て前の本牧の海水浴場の様子まで分かる。
 この種の下水道史は他の都市でも作っているけれども、横浜が面白いのは下水道に国際貿易港の側面が絡んでいるところである。

 横浜には江戸末期から外国人が住み始めたので外国人居留地があった。
 高台の山手にもあったが、中華街周辺の低地にも作られた。
 この居留地の下水インフラは西洋人基準でいうと劣悪で、水は井戸水、便所は屋外にあって汲み取り式、生活雑排水を流す側溝は木製ですぐ詰まった。そこで西洋人は、石でできた暗渠の下水を作るようしつこく求めてくる。そこで神奈川県は馬車の通る馬車道に暗渠の下水路を設けるなどして必死に対応する。

 この結果として横浜には地方都市としては異例に早く西洋式下水が誕生する。明治3年のことであった。
 西洋式下水といっても暗渠で海に流し去るだけなのであるが、さしあたってこれでよかった。西洋人が下水の整備にこだわったのは海の水質保全を考えてのことではなく、地面に浸透した下水がすぐ近くの井戸にしみこんでコレラの流行につながることを恐れたからである。

 同じ理由で汲み取り便所の木製便槽をコンクリート製に替えることも求めている。
 これは木製の便槽から地下に染み出す糞便が井戸水を汚染していたことによる。その時もちろん彼らは水洗で下水管に流し去る方式の便所を同時に要望したのであるが、これは近代的な水道による大量の水を必要とするので、改善は便槽の材質にとどまり、汲み取り式は改まらなかったようである。
 
 ところがこうして作られた明治3年式の「西洋式下水」は、実は雨水を流す程度の機能しかなかったのですぐにごみが詰まってしまい、西洋人の抗議の末、明治17年に今度はまともな西洋式下水(ただし海に垂れ流し)が完成する。
 一方で彼らは、清浄な上水を供給しろという要求も行い、神奈川県は多摩川から二ヶ領用水経由で木製の樋で通水したものの使い物にならず、再び抗議を受けて明治20年、相模川上流から鉄管による近代水道が完成する。
 このあたり、純粋に首都の衛生対策のために下水整備した東京とは対照的に「外圧でしぶしぶやらされた」感が滲み出ていて涙ぐましい。
 そのためかどうか分からないが、横浜に下水処理場まで完備した現代式下水道ができるのは昭和37年で、スタートの早さに比してかなり遅い。横浜がここまで遅れたのは関東大震災で被害を受けた影響もあるが、同じく外国人居留地を抱えた神戸(昭和33年)と長崎(昭和36年)も遅い。
 
 いっぽう、下水処理場の設置が早いのは、東京(大正11年)、名古屋(昭和5年)、京都(昭和9年)、豊橋(昭和10年)、岐阜(昭和12年)、大阪(昭和15年)である。
 東京は首都だから、京都は東京遷都以後近代化に努めていたから、名古屋も大都市だからというようなことだろうと思うが、ここで不思議なのは豊橋と岐阜の早さである。大阪よりも早い。特に豊橋の早さはかなり唐突である。豊橋の人には失礼になるが、豊橋程度の規模の都市に下水処理場が早くできたというのは違和感がある。
 
 これらの都市で下水処理場のできた年と、当時のおおよその人口を並べてみる。
  東京市  大正11年 217万人(※)
  名古屋市 昭和5年  90万人
  京都市  昭和9年  108万人
  豊橋市  昭和10年  14万人
  岐阜市  昭和12年  13万人
  大阪市  昭和15年  325万人
  横浜市  昭和37年  138万人
 
 下水処理場は大量の汚水を集中的に処理しようとする施設である。だから人口が多く、人口密度が高くないと成立しない。この表では人口密度は分からないが、人口がある程度多くなると下水処理場を作り出すことが分かる。 最初の東京市は200万人を超えるまで下水処理場を作らなかったので遅い感じだが、これは後述するように下水処理場というものの発明がそもそも遅かったのと、予算不足で建設が後回しになったためである。
 大阪も遅いが、これは市街地が低湿地に向かって急拡大したので、その排水対策に追われていたためとされている。ちなみに大阪よりも出遅れると横浜のように戦後に後回しになる。
 京都が大阪よりも早いのは近代インフラに敏感に飛びついた京都らしいといえるが、その京都よりも早い名古屋の存在が妙に気になる。そして問題は豊橋である。人口10万人台で下水処理場建設に踏み切ったこの早さは異常といえる。

 野田処理場
 現役で活躍する豊橋市の野田下水処理場
 野田処理場看板  

 豊橋市下水道局のホームページはかなり充実しているので前から気にはなっていたが、そのホームページによるとこういうことのようである。

 ・豊橋では大正時代、製糸業が盛んであった。
 ・しかし昭和4年、世界不況によって生糸相場が暴落して製糸業が大打撃を受けて失業者が多く出た。
 ・一方、豊橋は水はけが悪かったので、不衛生で伝染病の発生に悩んできた。
 ・そこで昭和7年、当時の市長の丸茂藤平が失業対策事業として下水道工事を進めた。
 ・この工事で昭和10年、当時東洋一といわれる下水処理場ができた。
 ・下水道工事は昭和12年に完成する予定だったが、昭和10年に完成した。
 
 
 つまり主力の製糸業が落ち込んだので失業対策の公共事業として取り組んだら意外に早く下水道ができたということらしい。しかしこれだけではどうも腑に落ちない。
 当時製糸業が盛んで水はけの悪い土地はいくらでもあったはずである。
 例えば横浜は生糸の輸出港であったし、北関東にも製糸業が盛んで水はけの悪い都市はいくらでもあったが下水処理場はできなかった。当の豊橋にしても実際に行ってみるとそれほど水はけが悪い地形に見えない。豊橋にはもっと特別な事情があるのではないか。そこで別の資料をあたると次のようなことがわかった。

 ・失業対策事業には国から補助金が出た。
 ・丸茂藤平市長は警察官僚出身で関東大震災復興事業で下水道建設にあたったことがあるのでそのときのスタッフを招いてノウハウを丸ごと利用した。
 ・下水道工事が2年早く終わったのは、昭和6年に満州事変、昭和7年に上海事変が起こったためであった。
 ・それはこういう仕組みである:戦時体制に入る→資金を得るために国債が大量発行される→お金が多く出回る→物価が上がる→工事用の資材も値上がりしてきた→工事を急いだ。
 ・さらにこういう事情もあった:戦時体制に入る→財源確保のために公共事業費が抑制される→のんびり工事していると補助金がもらえなくなる→前倒しで工事を急ぐ必要がある。
 ・このため、丸茂市長は結構強引に工事を急いだ。
 ・その後日本は、市長の読み通り公共事業を急速に尻すぼみさせていった。
 

 つまり豊橋に下水道が早くできたのは、
 ①恐慌の影響を受けやすい製糸業の都市であったという産業的要因に加えて、
 ②公共事業の仕組みを知り尽くして、なおかつ強気な丸茂市長のキャラクター
に負うところが大きかったように見える。
 
 ところで豊橋はその後の終戦直後も、地元の資金拠出で国鉄の駅舎を作るという「民衆駅」を全国で初めて建設したり、平成10年に市内の路面電車を駅前まで延伸してその後の路面電車ブームの先駆けになっている。どうも豊橋は新しい都市インフラに的確に飛びつく嗅覚を持っているらしく、それが①②と相乗的に働いたということも考えられる。
 
 さて、しかしそれならば名古屋と岐阜の早さは何なのか。岐阜も異常だが大阪と京都を差し置いた名古屋もあやしい。
 岐阜も名古屋も繊維産業が集積していたので事情は豊橋と似ているが、そう都合よく豪腕な官僚市長がいたとも思えない。他に理由がありそうだが、愛知県あたりの下水道史を見てもそれはわからない。「低湿地で排水対策に悩んでいた」「河川の汚濁に悩んでいた」という決まり文句が出てくるだけである。なので日本全体で比較することにした。すると面白いことが分かった。
「34 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(後編)」につづく)


(参考文献)
※大正9年国勢調査結果による。なお、東京市の人口は当時の15区(大田区、世田谷区などが含まれない)にあたる区域の人口の合計である。(出典は独立行政法人統計センターのホームページ)現在の23区の区域で集計すると370万人となる(出典は東京都ホームページ)。京都市ホームページも分かりやすい。

『横浜下水道史』 横浜市下水道局 平成5年(横浜市立鶴見図書館などで閲覧可能)
『横浜水道関係資料集』一八六二~九七  昭和62年 横浜開港資料館 同館で購入可能。地下の資料室で閲覧も可能。
『豊橋市史 第四巻』 豊橋市史編集委員会・編 昭和62年(関東の人でも東京都立中央図書館で閲覧可能だが、出版年にこだわらなければ他の図書館でも所蔵している可能性が高い)

(おすすめ)
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野田下水処理場は交通の不便な場所にあるが、レンタサイクルを使うとスイスイたどり着ける。また、豊橋から渥美半島に向けて走る豊橋鉄道は土日はプラス100円で自転車持ち込み可なので、両方駆使すると豊橋をかなり安く効率的に制覇できる。なお、この自転車店は暗渠の上に建つビルに入居するという絶妙なロケーションにある。
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大落川


 またギモンが発生してしまったのでドブ川雑記帳の続編を掲載します。
 毎週土曜日に1話更新、全9話の予定です。
 7月28日(土)のスタートを予定しています。
 更新期間中(本日~9月末)は、記事の並びをひっくりかえして新着順に並べます。
 この方法がいいのかちょっとよく分からないのですが、他にうまい方法も思いつかないのでどうぞご容赦ください。

 予定記事(章番号は通番です。予定変更になることがあります。)
  第33章 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(前編)
  第34章 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(後編)   
  第35章 東急百貨店東横店のトイレ
  第36章 ヘドロ(前編)
  第37章 ヘドロ(後編)
  第38章 水質汚濁防止法
  第39章 続・渋谷川や目黒川はなぜ開渠区間が長いのか
  第40章 アユとコイ(前編)
  第41章 アユとコイ(後編)

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プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

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