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34 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(後編)

土管壁 愛知県常滑市内
33 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(前編)から続く)


 明治初期、日本で一番下水道が整っていたのは大阪であった。
 豊臣秀吉の時代から下水を流す暗渠がそれなりに作られていたからである。
 そこに外国人居留地を背景にした横浜、神戸、首都整備を背景にした東京が参入する。
 
 さて、ここで「下水道」と呼んでいるのは生活排水を流すための側溝や暗渠程度のものである。
 私たちは下水道というと「汚水と雨水に分かれて下水処理場までつながる排水網」と考えがちだが、ここに落とし穴がある。下水道は上水道と違って、要求される機能が時代によってめまぐるしく変わるところに特徴がある。下水処理場のパンフレットはこの点に触れてくれないが、この特徴をつかまないと謎が解けないのでまとめてみる。

 ステップ0 下水道を真剣に考えなくてよい段階(西洋人がコレラなどの伝染病を持ち込む前の日本はそれほど排水の衛生を考えなくてよかった)
 ステップ1 「下水道は、伝染病予防のために、生活排水を土に浸み込ませずにすばやく流す設備である」という段階
 ステップ2 「下水道は、浸水被害を防止するために、生活排水と雨水をすばやく流すための設備である」という段階
 ステップ3 「下水道は、水洗便所を可能にするために、下水処理場で汚水を浄化するための設備である」という段階
 ステップ4 「下水道は、川と海の水質を改善するために、高度な処理を行うための施設である」という段階 


 現代人はステップ4の感覚で下水道を捉えている。下水道がなくても水洗便所は可能だが、単独浄化槽や合流式下水道では川が汚れるので分流式で高度処理の下水道があったほうがいい、という感覚である。でも明治時代はステップ1だった。

 ステップ1の先頭集団は、上に記した大阪、横浜、神戸、東京である。
 ステップ2の時代になると大阪と東京が抜きん出るようになるが、なかなか進まない。原因は、費用がかかりすぎることと、明治22年の「東京市下水設計第一報告書」で、同じく費用のかかる上水道整備の優先が決定し、下水道が後回しにされたからである。上水道の方が伝染病対策としては即効性があるから仕方ないことではあった。

 ここでいきなり脇道に逸れるが、この報告書を策定したメンバーには内務省衛生局の官僚としてロンドン万国衛生博覧会を視察した永井久一郎がいる。当時下水道に関わった官僚は下水道一筋に奉職していくのに対し、永井久一郎はそのようなこだわりがなかったのか、文部省、日本郵船と転じて、最終的に趣味の漢詩に打ち込んでしまう。このことと彼の息子が荷風であることを併せて考えると「やはり」と思う。永井久一郎は名古屋の出身であった。

 さて、大正時代になると都市計画法という法律ができ、これが下水道に光明をもたらす。
 ある都市が「都市計画法で整備すべき都市」として認定されると、下水道を作った時に下水料金を徴収できることになったからである。こうすると費用の問題が少し解決する。そしてこの時期にイギリスで発明された下水処理法が日本に伝わり、ステップ3の時代になるが、ちょうど運悪く関東大震災が起き、東京や横浜は復旧作業に追われていく。
 
 ここで名古屋が彗星のごとく登場する。
 
 試行錯誤した東京や大阪と違い、名古屋の下水道は満を持して都市計画法を活用して行われた。
 岐阜と豊橋も同じである。都市計画法と、折からの不況対策として始まった失業対策事業を駆使して電光石火で下水道を整備してしまった。この3都市が全国の他の都市と違うのは、他の都市がステップ2の設備(下水幹線)しか作らなかったのに対し、ステップ3の設備(下水処理場)まで作ってしまったことである。

 しかもその処理方法には最新式の処理方法が採用された。
 大正11年に完成した東京の三河島処理場は「散水ろ床法」(砕石を充填した層に汚水を撒き、砕石表面の微生物に分解させる)という旧式の処理法であったが、イギリスのマンチェスターでは「活性汚泥法」(汚水に空気を吹き込み、微生物に分解させる)という新方式が大正2年に開発されていた。
 名古屋は後発のメリットを生かしてこれをいち早く導入した上に、一気に3箇所も作ってしまった。岐阜、豊橋もこれに倣う。
 
 この間、例えば横浜市と八王子市はともに失業対策として下水道工事を実施したが、下水処理場の建設まではしなかった。もちろん濃尾平野に低湿地が多くて水はけが悪かったという事情もあるが、最新式の下水処理場まで作ってしまったのはやはり彼らの合理性というものであったと思う。下水処理場を「都市計画に内蔵すべき装置」として捉える思考があったのだと思う。特に豊橋市長の丸茂藤平は最初からこのあたりのことがよく見えていたであろう。
 
 と、このようなことは下水道史などを読むと大体分かる。
 しかし下水道史はたいてい下水道局の人が書いているので当然下水道賛美になる。
 「本当は浄化槽でもよかったかもしれないですけどね」とは書かない。これでは気持ち悪いので別な角度から珍説を仕立て上げてみた。名づけて「名古屋便器都市説」。この説は『水洗トイレの産業史』という本を読んでいて浮上した。
 
 この本によれば、日本の便器メーカーはシェアの高い順に、TOTO(旧社名:東洋陶器)、LIXIL(旧社名:伊奈製陶、ブランド名・INAX)、ジャニス工業(旧社名・西浦製陶)、アサヒ衛陶で、この4社で98%を占める(平成17年現在)。
 
 TOTOは北九州市の企業であるが、もともと日本陶器というメーカーの衛生陶器製造部門の会社として設立された。日本陶器は名古屋駅近くの則武という場所で輸出用食器を作っていたメーカーで「NORITAKE」ブランドとして有名であった。これが衛生陶器部門にも進出し、結果的に北九州に東洋陶器を設立する。
 北九州に設立したのは、いい陶土があること、筑豊の石炭を使えること、販売先として有力だった東アジア諸国に近かったこと、とされる。
 では母体の日本陶器はなぜ名古屋で陶器を作っていたかというと、瀬戸・多治見などの陶磁器メーカーの輸出基地が名古屋にあったからである。
 瀬戸、多治見は豊富な陶土を背景とする陶磁器産業の都市であるが、明治以降は欧米への輸出に力を入れたので輸送に便利な名古屋港と名古屋駅周辺が拠点になった。名古屋港からの堀川運河と東海道線が交差するあたりが則武である。つまり強引に結びつけると東洋陶器は瀬戸や多治見の陶磁器産業をルーツに持つ便器メーカーといえる。
 
 2番目のシェアを持つのはLIXILである。
 この会社の前身の伊奈製陶は愛知県常滑市、伊勢湾に延びる知多半島西岸の窯元伊奈家をルーツとしている。常滑は良質の陶土が出ることを利用した陶器の製造で古くから知られている。伊奈製陶はもともと日本陶器の支援を受けて陶管の製造からタイル製造を始め、トイレのタイルを一体施工できることを強みに便器分野を伸ばし、今ではアルミサッシメーカーと流し台メーカーと門扉メーカーと合併して現社名になっている。
 
 3番目のジャニス製陶も常滑市の企業で、陶管と便器を製造していた。この会社の設立には伊奈製陶がかかわっているという。
 残るアサヒ衛陶は大阪のメーカーで、江戸時代の「摂州瓦屋庄兵衛」という瓦製造業者で、赤煉瓦、土管の製造を経て便器に進出した。

 こうしてみると、日本の便器メーカートップ3のルーツをたどっていくと瀬戸・多治見・常滑の陶磁器産業に行き着くことになる。
 その帰結として名古屋には便器メーカーが集積することになる。これらの便器メーカーは水洗便器を製造していたから、そのことが名古屋の水洗便所普及の加速装置として働いたのではないだろうか。
 自動車メーカーが集積している名古屋で道路インフラが東京や大阪よりもずば抜けて整備されているところを見れば、「便器産業が下水道整備を促進する」という関係もありうるのではないか、私はそう考えた。

 もっとも、便器産業が発達してもそれが浄化槽産業と結びついた場合、下水道の進展にはあまり結びつかない。 便器メーカーとしては便器が売れればいいのであって、時間のかかる下水道を待つよりも手っ取り早くできる浄化槽で水洗便器が売れればその方がよい。有力な浄化槽メーカーが集積した戦前の大阪がこれにあたるように思うが、名古屋がそうならなかったのは、浄化槽メーカーがそれほど集積していなかったことによるのではないかと思う。こういったことが名古屋、岐阜、豊橋の下水処理場建設に影響を及ぼしたのではないだろうか。うーん、そうに違いない。
 
 と言いたいところであるが、この説には問題があった。
 
 この説では「ではなぜ常滑や瀬戸は下水道普及率が低いのか」が説明できない。瀬戸は名古屋便器産業のルーツ、常滑は伊奈製陶と西浦製陶のお膝元である。しかし瀬戸市に下水道ができたのは昭和45年、常滑市に至っては平成13年とかなり遅い。常滑市民は市内で大量の便器を製造していながら、なぜ下水道を欲しなかったのであろうか。これはいくら考えてもわからない。したがって常滑の人に聞くしかない。
 
 名鉄常滑線で常滑に近づくと巨大なLIXIL(INAX)の工場が現れる。
 この街にはINAXライブミュージアムという施設があり、歴代の便器が展示してあるという。ここで尋ねれば分かるに違いない。
 ところが残念なことに、このミュージアムは世界のタイルの展示室やおしゃれな陶芸工房を併設するという上品で洗練された施設で、館内のスタッフも上品な女性しかいなかったので、便器の話は切り出せなかった。しかし考えてみれば、現代の便器メーカーは、便器が排泄と下水処理の途中にあるという現実を忘れさせるために工夫を凝らしているのであるからこれは仕方がないことといえる。
 そこで作戦を変えて「とこなめ陶の森資料館」(旧常滑市民俗資料館)に向かうことにする。

 常滑市のドブ川は39.8%という低い下水道普及率のわりにそれほど汚れていない。河床には泥が堆積しているもののこれは干潟の泥に似たものであって、ヘドロ臭はそれほど感じない。
 ただし他の街のドブ川と決定的に違うのは、川底に陶器や陶管(いわゆる土管)のかけらが無数に落ちていることであった。こんなドブ川は初めて見た。
 そして見回して分かったのはこの街は便器メーカーの街である以上に陶管メーカーの街だということであった。街のあちこちに窯の煙突があり、石垣やブロック塀にすべきところに陶管が使われている。庭には使わなくなった陶管が転がっている。

常滑の川底 常滑市内の川(陶器の破片がちりばめられている)
常滑の川底2 陶管もある
常滑駅前の川 常滑駅前の川は若干「古典派ドブ川」である


 しかし陶管というものはまさに下水道に使われる資材である。これほどまでに陶管と運命をともにした街であれば、なおさら下水道普及率が低い理由がわからない。と頭をひねっているうちに資料館に着いたので訊く。どうして常滑は下水道普及率が低かったのですか?

 「下水道というものは、やはり都市部から普及していくわけです」
 この資料館の学芸員はすばらしいことに私のギモンを完全解消してくれた。まとめるとこうである。

 ・常滑の便器や陶管は全国に出荷する商品であって、自分たちが使うために作ったものではなかった。
 ・そもそも常滑の陶管は横浜の新居留地の下水整備に伴って確立した経緯がある。
 ・常滑の陶管は名古屋の下水管にも使われた。
 ・しかし常滑の街は規模が小さく、古くて街路が入り組み、アップダウンが激しいので下水道敷設が難しかった。
 ・とはいうものの下水道がなくても浄化槽を使えば水洗便所が実現できた。


 なんと奇遇なことに常滑の陶管は横浜の下水管に使うためにイギリス人技師の発注で生み出されたものなのであった。資料館の展示パネルには、常滑製陶管が明治のはじめから東京や横浜に出荷されていたこと、常滑港の改良と、名鉄常滑線の開通によって出荷が飛躍的に延びたことが書かれている。
 たしかに農産物と違って工業製品は換金用商品としての性格が強く出る。秩父の人がセメントばかり使うわけではないし、富山の人が薬ばかり飲むわけではない。
 常滑の人も販売するためだけに陶管と便器を作り続けたのであろう。
 とはいうものの、これらの産地が近くにあるという事実は名古屋、岐阜、豊橋といった周辺都市の下水道には少なからず影響したのではないか、冷やしとろろきしめんを食べながら私はそう結論付けた。
 
 帰りがてら、私はINAXの便器がどこに使われているか調べてみた。常滑便器の影響力がどこまで及んでいるのかを知りたかったからである。INAXミュージアムのトイレには当然同社の最新型が、とこなめ陶の森資料館には旧型のINAマーク便器が、名鉄常滑駅のトイレもINAX、さらに名鉄名古屋駅もINAXであったが、JRの700系新幹線の車内小便器はTOTO製であった。


(参考文献など)
とこなめ陶の森資料館(愛知県常滑市)常滑発展のルーツはこの資料館に秘められている。
INAXライブミュージアム(愛知県常滑市)ドブの調査を目的にするのでなければ、建築陶器や古い窯などがセンスよく展示されたすばらしい博物館である。

水洗トイレの産業史 -20世紀日本の見えざるイノベーション-』名古屋大学出版会 平成20年 トイレの話はとかく雑学ネタ的に取り扱われやすいが、この本は水洗トイレを給水、便器、浄化槽、下水道の産業の複合体として捉えた労作である。
『横浜下水道史』 横浜市下水道局 平成5年(横浜市立鶴見図書館などで閲覧可能)
『横浜水道関係資料集』一八六二~九七 横浜開港資料館 昭和62年(同館で購入・閲覧可能)
『豊橋市史 第四巻』 豊橋市史編集委員会・編 昭和62年
『愛知県下水道史』 (財)愛知水と緑の公社
『日本下水道史 行財政編』 (社)日本下水道協会 昭和61年
『日本下水道史 総集編』 (社)日本下水道協会 平成元年
図説 永井荷風 (ふくろうの本/日本の文化)』 川本三郎 湯川説子 平成17年 河出書房新社

名古屋鉄道 名鉄名古屋駅からタイルの美しい常滑駅までは名鉄常滑線特急で30分。

(行けなかったが見てみたい)
知多半島の鉄道 常滑線開通100年展(知多市歴史民族博物館) 平成24年9月2日まで
いまは空港アクセス、昔は陶管輸送の常滑線。便器は運んでいなかったのか?
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35 東急百貨店東横店のトイレ

東急百貨店東横店
(東急百貨店東横店東館は平成25年3月をもって閉館しました。渋谷川の考察に大きなヒントを与えてくださった同館にお礼申し上げます。なお、西館と南館は継続します。)

  * * *

 渋谷駅の東急百貨店東横店の東館が渋谷川の上に建っている、という話はいろいろな書籍やブログで取り上げられている(※1)。
 私もそれらを見て数年前に行ってみたところ、なるほど川の上と思しき部分を足で強く踏むと床下に空洞がある響きがして面白かった。しかしここでギモンが浮かぶ。

 この百貨店の建造は昭和9年で、当時は東横百貨店と言った。鉄筋コンクリートの8階建てで、当時の写真を見ると、遠方からもよく目立ち相当に珍しい建物だったことが分かる。
 ここのトイレはもちろん水洗便所であったことだろう。汲み取り式のボットン便所は2階建てアパートくらいまでは成り立つが、それ以上になるとまず無理である。しかしこの時代、渋谷に下水道はない。デパートの大小便をどのように処理していたのだろうか。
 私は東急東横店東館のトイレに急速に興味を抱き、足繁く通った。すると、この建物のトイレは各階とも階段脇に設置されていることが分かった。トイレのある場所をそのまま地上に降ろすと渋谷川の脇になる。

「トイレが渋谷川に直結していたのであろうか」
 百貨店の8階から勢いよく落下物が渋谷川に突入する図が頭の中に浮かんでしまった。まさかとは思ったが、実際川のそばには公衆便所が多い。江戸の中心の日本橋の袂にも立派な公衆便所がある。これはもちろん川に汚物を放流するためではなくて、汲み取り時代に船で回収していた名残なのだが、川とトイレは近しい関係にある。あやしい。

新並木橋の公衆便所 渋谷川新並木橋脇の公衆便所

「便所の排水処理のために渋谷川の真上という立地を選んだのだろうか」

 百貨店を出店する時、トイレの都合から立地を考える経営者などいないわけであるが、私はドブ川を中心にモノを考える癖が付いてしまっているので東急百貨店通いを続けた。
 しかし床下の配管設備のことなので、店の中を歩くだけでは見えない。しかもこの百貨店の排水は今では下水道に接続されているだろうからなおさら分からない。
 では、ということで渋谷区の郷土資料館で東横百貨店開店当時の地下平面図のコピーを見せてもらった。
 
 この資料は残念なことに字が潰れてよく見えなかったが、ポンプ室が地下にあることが分かった。ポンプ室は排水ではなく給水のためのものであろうけれども、そのような近代設備があるくらいなら、浄化槽というものがついていてもおかしくはない。
 ということで浄化槽が一体いつから日本で使われていたのかを調べると、明治45年に兵庫県の外国人経営の石鹸工場に設置されたのが最初であった。それから東横百貨店ができるまで21年。この歳月は浄化槽という舶来の設備が百貨店の設備として普及するのに十分すぎる年月であっただろう。
 それを裏付けるように、老舗の浄化槽メーカーの社史には昭和8年に大阪ガスビルディング、昭和7年に阪急百貨店、昭和6年に東京の聖路加国際病院の「衛生設備工事」をしたことが記されている。当時の東横百貨店の工事については分からないが、この状況から考えると昭和9年に8階建ての百貨店に浄化槽付きの水洗便所を設置することはわけもないことのように考えられる。
 こうして東横百貨店トイレ問題は一応の解決を見た。しかし当然ながら新たなギモンが発生する。
 
 浄化槽普及以前の水洗便所は一体どのように処理していたのであろうか。
 浄化槽ができたのは明治末期だが日本に外国人が来たのは明治初期。彼らは当然水洗便所の配備を要求する。日本はこれをどのように乗り越えたのか。
 
 水洗便所というものは下水道がなくても成立する。
 かつて私が西アフリカの水道も電話もない村で一泊したときも、水洗便所だけはあった。その水洗便所は和式便器のような形をしていて、用を足したあとにバケツで水を流すと配管を通じて隣の空き地に自然放流・浸透されるというシステムであった。
 でもこれを都市でやると破綻する。とはいうものの明治の初期には近代的なビルはすでにあったわけで、これらのビルについていたであろう水洗便所の排水がどのように処理されていたのかは実にギモンなところである。しかしこれを体系的に調べた資料が例によってなかなかない。そこでいろいろな資料をつなぎ合わせて表を作ってみた。

<日本の水洗便所年表>
江戸末期 横浜の外国人向けのホテルに便壷内蔵の椅子(非水洗)が備えられる。
明治2年ごろ 「土壌浄化装置付き便所」が開発される(これが水洗かどうかは不明)
明治2年 イギリス人技師ブラントン(横浜在住)が「下水道と接続する水洗便所」の必要性を力説する。
明治4年 横浜で汲み取り式の洋風便所が開発される。
明治20年 水洗便所に不可欠な近代水道が横浜に開通する。
明治35年頃まで 外国人の住居といえども汲み取り式であった。
明治35年 水洗便所の輸入が始まる。排水処理方法は次のとおり。
  方法① 汚水溜に溜めて汲み取る。
  方法② 砂利やコークスでろ過して放流。
  方法③ 川沿いにビルを作り、排水管を川まで繋ぎ、その出口に糞便の運搬船を横付けして回収。
  方法④ こっそり川に捨てる(違法)。
明治45年 兵庫県の尼崎で日本初の浄化槽が設置される。
大正3年頃 国産浄化槽が作られ始めて水洗便所設置(水槽便所と呼んだ)の許可を得られるようになってくる。
大正11年 東京の三河島に下水処理場ができて正式に水洗便所設置が可能になる。

三河島水再生センター(旧三河島下水処理場 東京都荒川区) 三河島水再生センター(旧称 三河島下水処理場)


 明治時代を通して、「水洗便所はほしいが処理方法がないために設置できない」というジレンマが続いたことが分かる。これに終わりを告げたのが微生物による好気分解と嫌気分解の原理を利用した浄化槽の発明であった。この原理は現代の単独浄化槽の仕組みとほぼ同じで、その点では画期的な発明といえた。
 結局浄化槽が発明されるまでは外国人といえどもボットン便所に甘んじるしかなかった、そういうことのようである。

 さて、だいたい分かったところで年表を見直すと、最初に登場する外国人向けホテルの便壷内蔵椅子というものが気になる。これはいったいどのようなものであろうか。そのようなものを部屋に置いたらくさくて気持ち悪いのではないだろうか。
 ところが実物を見てみるとこれがなかなか格好いい。
 この椅子はchamber pot(※2)といい、愛知県常滑市のINAXライブミュージアムという博物館に展示されている。イギリス製なのであろう。ホーロー製の小ぶりな便壷を覆うように木製の箱型の椅子があり、座面に便座のような穴が開いている。用を足したら土や消臭剤を撒いてふたをするようになっている。ふたをしてしまうとおしゃれなタンスのようにしか見えない。これは便利なのではないか。真冬の夜中に目が覚めたときに寒いからちょっとこれで……というわけにはいかないだろうが、災害でトイレが使えないときは結構便利な気がする。

(※1)Wikipediaや、東京都都市計画審議会ホームページの資料(pdfファイルの35ページのところ)によると、平成21年5月22日に渋谷川の上流端は、従来の宮益橋(東急東横店のところ)から稲荷橋(246号線のところ)に変更され、250m短縮されたようである。したがって現在は同百貨店は「川の上」にはない。渋谷川に関しては渋谷駅東口の再開発や東横線跡地を利用した水辺空間再生などの動きが報道されており、いろいろ変わりそうである。

(※2)chamberは英語で「部屋」。よってchamber-potは「部屋の瓶」→「室内用し瓶」。chamberはラテン語に由来する言葉らしく、フランス語で部屋はchambre。と辞書にある。
 
(参考文献など)
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館
水洗トイレの産業史 -20世紀日本の見えざるイノベーション-』名古屋大学出版会 平成20年
『須賀工業90年史』 須賀工業株式会社 平成4年
『横浜水道関係資料集 一八六二~九七』 横浜開港資料館 昭和62年(同館で販売・閲覧可能))
INAXライブミュージアム(chamber potの展示がある)
レイルウェイライフ こうしてみると不思議な格好をしたデパートである。

36 ヘドロ(前編)

 くさいドブ川は水が汚くてヘドロが溜まっている。
 ヘドロが悪臭と汚染を再生産しているように見える。見るに堪えない。というのは正常な人の場合で、私はどうしても気になってしまって覗き込んでしまう。そしてあるギモンを抱くようになった。

「ドブ川は悪臭とヘドロを生み出していったい何をしようとしているのか」

 ドブ川はもちろん何かの意志があって流れているのではない。
 けれども汚水を元手にして何事かを成し遂げようとしているようにも見える。今までドブ川のにおいとか姿に気を取られていたが、それがどういう結果に向かって活動しているのかが気になってきた。

  さいたま市のドブ川

 これはさいたま市内にある川の写真である。左側にヘドロと茶色い泡、水は濃い灰色に濁っている。流速はきわめて遅く、いわゆる「ドブ川のにおい」がする。
 さいたま市の下水道普及率は87.9%で高いほうだが、さいたま市の南部は水はけの悪い水田地帯だったところに市街地ができたので油断するとたまにこういう川が出現する。
 この川の場合、ヘドロの堆積と茶色い泡がいかにもまずい感じである。悪臭もここから出ているのだろうし、汚染の元凶になっている感じがする。このヘドロを全部掻き出してしまえば川はきれいになるだろうに。私は最初そう思っていたのであるが、だんだんこう思い始めた。

「ヘドロは汚染の元凶なのではなくて浄化過程の副産物なのではないか。」
 こんなことを思ったのは下水処理場のパンフレットを見返していたときであった。下水処理場の仕組みはこうだ。

下水処理場の池 下水処理場


①汚水が流入すると、まず固形物(主にウンコ)を沈めて回収→
②汚水に酸素を吹き込んで水中の有機物を好気性微生物に食べさせる→
③この時出るガスは二酸化炭素なので無臭(ここで上澄みを消毒して放流)→
④微生物が沈殿して「活性汚泥」というものになる→
⑤沈殿した活性汚泥を酸素の入らない槽に送る→
⑥嫌気性の細菌が繁殖する→
⑦嫌気分解によって活性汚泥が減量する→
⑧硫化水素やメタンガスが発生する→
⑨硫化水素は脱硫装置で除去し、メタンガスは発電用燃料として利用する→
⑩減量した汚泥を⑨のメタンガスを燃やして過熱して乾燥させる


 活性汚泥とは増殖した好気性微生物の塊である。下水処理場は水槽の中に酸素を吹き込み続けるので活性汚泥は生きて「活性」したままでいられるが、酸欠(嫌気)状態になると俗にヘドロと呼ばれるものになる。つまり活性汚泥はヘドロの一歩手前の物質といえる。
 ①~⑩をもう少し単純化すると次のようになる。

汚水→好気性の分解→活性汚泥発生→酸欠状態にする→ヘドロになる→嫌気性の分解→汚泥が減る

 すると次のようなことがいえる。
・ヘドロが水を汚しているのではなく、汚水を微生物が分解した結果としてヘドロができる(②⑦の過程)。
・嫌気性細菌はヘドロを増加させるのではなく、分解役として働いている(の過程)。

これはドブ川にも言えることなのではないだろうか。ドブ川の仕組みは下水処理場のそれとよく似ているからである。ドブ川の仕組みはこうだ。 

①汚水が流入する→
②汚水中の酸素を使って好気性微生物が有機物を食べる→
③この時出るガスは二酸化炭素なので無臭→
④酸素を消費し尽くして好気性微生物が死んで沈殿してヘドロになる→
⑤ヘドロが堆積する→
⑥その中に嫌気性の細菌が繁殖する→
⑦ヘドロの中で有機物を嫌気分解する作業が始まる→
⑧硫化水素やメタンが発生する→
⑨大気中に放出


 下水処理場とドブ川には、
・ドブ川には基本的にウンコは入り込まない(のところ)
・下水処理場は酸素を吹き込んで活性汚泥をヘドロにしない機能を持っている(のところ)
・下水処理場は発生したガスを回収する機能を持っている(のところ)
といった違いがあるが、おおむね似た仕組みで動いていることが分かる。

 であれば、ドブ川の「活動」は汚水の有機物を分解するものといえるのではないだろうか。その結果ヘドロを生み出してしまうのは汚水に有機物が多すぎるからであって、その後に登場する嫌気性細菌は有機物を分解する能力自体は高い。
 その過程で硫化水素(H2S)やメタン(CH4)を発生させてしまうが、これらに含まれる硫黄(S)や炭素(C)はもともと汚水中の有機物に含まれていたものだから、これらのガスを発生させる作業がまさしく有機物の分解作業といえる。
 ヘドロはその作業に必要な嫌気的で安定した空間を提供する役割を果たしているのではないだろうか。
 
 植物が無機物から有機物を作り、動物がそれを食べた後、どうしても嫌気性細菌の力を借りなければ元の無機物に戻すことはできない。つまりヘドロやウンコの状態を避けて無機物になることはできない。火で燃やして灰にしてしまえば無機物にできるが、自然界ではふつう火は発生しないので、有機物はウンコやヘドロにならないと無機物への分解というスタートラインに立てない。
 
 ここで実に絶妙なのは、動物が嫌気性細菌の力を借りて大腸でウンコを製造するという仕組みを体内に持っていることである。
 動物は体内に摂取した有機物を無機物に変える仕組みの端緒を体内に持っている。大腸はおそらく排泄物をウンコというコンパクトな形状に納めるためにあるのだろうが、動物は有機物の消費者であると同時に無機物への分解作業の序盤も担う不思議な生命体といえる。
 よってウンコとヘドロは無機物への分解という偉業の一過程といえるのではないか。したがってヘドロをばかにしてはいけないのではないか。

 と私は思ったのであるが、さいたま市のドブ川を見ているとこれが偉業の一過程だとはとても思えない。
下流に向かって歩いても洗剤の泡だらけの排水が流れ込んできたり、似たようなドブ川が合流して水は汚れるばかりで、偉業半ばでついに市境を越えて戸田市に入ってしまう。
 戸田市は川沿いに桜を植えたりして景観向上に努めているが、もう我慢ならないとばかり下水処理場の放流水をこの川に流して汚れを薄めている(※)。
 いくらヘドロが物質循環に不可欠だとか理屈をこねても、やはりこの状態は直観的に我慢ならない。ましてそこに住んでいればなおさらである。

さくら川(戸田市)戸田市は川の愛称も付けて全力でイメージアップに努めている

 しかしここでギモンなのは、なぜこの状態が「我慢ならない」のかということである。この「我慢ならない」という気持ちがあったからこそ下水道という施設が普及したのであるが、なぜドブ川が「我慢ならない」のかと考えると、うまく説明できない。もちろん「くさいから」「汚いから」であるが、ではなぜくさくて汚いと我慢ならないのか。
 くさくて汚いものを避けるのは人間の本能であるが、私が自分の子供で実験したところによると、子供は2歳くらいまではくさいトイレもわりと平気で入る。しかし3歳を過ぎて衛生観念を身につけるとくさいトイレを嫌うようになり、次いで汚いトイレを嫌う。だからくさくて汚いものを嫌うのは多分に衛生観念の問題だと思う。ここに少し深入りしてみたい。

「37ヘドロ(後編)」につづく)


※処理水の放流については戸田市のホームページ(PDF)に、川の汚染状況については菖蒲川・笹目川清流ルネッサンスⅡ(埼玉県ホームページ)の2,7,11,22ページあたりに記載されている。
戸田市の下水道普及率は平成22年度末で85.8%と低くはないものの、荒川沿いの低地という地形的条件からか、汚濁した中小河川を数多く抱えている。
上戸田川という別の支流では、川の水ごと浄化する設備を導入したり、川底に大き目の石を敷いて工夫しているので、その場所はすばらしくきれいになっていたが、その下流で別系統の暗渠管から生活排水が合流してしまうなど、なかなかうまくいかないように見える。

37 ヘドロ(後編)

戸田市内の状況 さいたま市から流れた川が戸田市内に入ったところ

「36 ヘドロ(前編)」から続く)

 人間は病原菌や有毒ガスを発する嫌気性分解(※)という現象をいかにコントロールするかに苦心してきた。嫌気性分解のうち無秩序で人間に害を及ぼしかねないものを「腐敗」と呼んでコントロールしてきた。

 まず自らの体内で行われる嫌気性分解の産物であるウンコを、便所という装置で隔離する。
 そのほかの腐敗は風呂、洗濯、掃除、調理という方法で遠ざける。
 その一方でヨーグルトを作る乳酸菌など、食生活に有用な特定の嫌気性細菌だけは集中培養して利用することにした。これを「発酵」と呼ぶ。
 腐敗を遠ざけ、発酵を味方に取り込んで嫌気性分解をコントロールすることは人類が長い歴史で培った叡智といえる。
 それなのにその現象が街中の川にひょっこり現れてしまうとは何事か、そういうことなのではないか。特に現代人はボットン便所を水洗トイレに進化させて嫌気性分解を完全制圧した気になっていただけに、なおさら受け入れがたいのではないか。ヘドロの追放は現代文明の沽券にかかわる問題といえる。
 
 とうまく解明できたつもりでいたら、寄生虫学の藤田紘一郎博士のエッセイでもっと切実な背景があったことが分かった。なぜここでタイミングよく寄生虫の本を読んだかというと、よく立ち寄る本屋の微生物学の棚の一角が寄生虫学のコーナーになっていたからである。
  『バカな研究を嗤うな』という題名のこの本によると、1950年代まで日本にはフィラリアという伝染病が蔓延していたという。フィラリアは人間のリンパ節の中に寄生虫が棲んで足が象のように太くなってしまったり陰嚢がバレーボールのように大きくなってしまったりする恐ろしい伝染病だそうで、感染者は働けなくなったり差別されたりした。
 ところがこの病気は戦後しばらくすると急速に撲滅されていく。その要因のひとつとして藤田博士は、下水道が整備されてドブ川が減ったことを挙げている。リンパ節に棲む寄生虫はイエカという蚊が媒介するが、イエカの幼虫つまりボウフラはドブ川に棲む。よってドブ川が減るとフィラリアも減っていく、ということであった。

 1950年代だとあまり下水道の普及は進んでいなかっただろうが、ドブ川の暗渠化は結構進んだはずだから、確かにそれは言えると思う。
 だとすればドブ川の暗渠化が景観美化や用地不足解消という動機から進められる前、伝染病対策として暗渠化が推進された時期があったのかもしれない。ヘドロを忌避するのはそういう切実な体験が強力に影響しているであろう。私はそんな切実さに思い及ばなかった自分のウッカリを恥じた。

 反省したところで次に移る。何しろヘドロは分からないことだらけなので先を急がなければならない。次のギモンは、
「ならば、ヘドロが溜まっていない川はどうして溜まらずに済んでいるのか」である。
 例えば東京の目黒川は流域の下水道普及率がほぼ100%なので水は汚くはないが、有機物や窒素化合物、リンはそれなりにある。特に窒素とリンが濃いであろう。これを栄養分にして繁殖した微生物の死骸が堆積すればヘドロになって溜まるはずである。しかしヘドロが溜まっているようには見えない。その原理が分からない。
 そこで目黒区の川の資料館に聞いてみた。なぜ目黒川にはヘドロが溜まっていないのですか。

「溜まっていますよ」

 聞くとこういうことであった。
 ①目黒川でも流れが緩やかになるポイントにヘドロが溜まって悪臭が出る。
 ②それでブルドーザーで定期的に掃除して産廃として捨てる。
 ③さらにこれ以上ヘドロを発生させないために底の水を吸い上げて高濃度の酸素を入れて底に戻すという実験を試みた。
 ④これでヘドロの発生は一応減った(ただし今はやっていない)。

目黒川その1 目黒川


 なんと人工的に取り除いているだけなのであった。この原理はこういうことであろう。
 まず次のような原理でヘドロが溜まる。
・目黒川の水は有機物は少ないが窒素分が多い
 →窒素分を植物プランクトンが摂取して増殖
 →植物プランクトンを動物プランクトンが摂取して増殖
 →動物プランクトンが酸素を消費し尽くす
 →酸欠で死んでヘドロになる。
・他にも、水源が下水処理水なので水中の酸素が少ない、河床がコンクリートなので虫や魚が棲みにくいという厳しい条件があってヘドロの増殖を助長する。
・東京湾の海水が遡上してくるので海水に含まれる硫酸イオンが硫化水素の原因物質になってにおいを出して不快感を増す。


 しかし、水中の酸素を多くしてやれば次の原理でヘドロが減る。

・窒素分を植物プランクトンが摂取
 →それを動物プランクトンが摂取
 →普通ならここで酸欠になるところだが人工的に酸素を供給するので魚が生息できてそれを摂取
 →魚を鳥が摂取
 →すなわち食物連鎖が機能する
 →生物が死んで腐敗する前に別の生物の食料として消費できる
 →その過程で魚もウンコをしたりするが、多くは活動するためのエネルギーとして酸化分解されるので総ウンコ量はかなり減量される
 →川底に溜まるヘドロとウンコも少なくて済む。
・そこで③の作業を行うことによってこれを人工的に実現する。

 
 目黒川はわりあいに条件が厳しいので苦労しているが、裏返すとそのような厳しい条件さえなければヘドロは溜まらないともいえる。すなわち、有機物や窒素、リンが多すぎず、海水が混入せず、水中の酸素が多く、魚や虫や鳥が棲める環境があればよい。きれいな川はこの環境があるのでヘドロが溜まらずに済んでいるのであろう。
 この点、さいたま市のドブ川はどうだろうか。

・有機物と窒素については、生下水なのでかなり厳しく、
・目黒川同様、東京湾の干満による水の滞留の問題もあるが、
・海水の硫酸イオンの心配は目黒川ほどシビアではなさそうで、
・河床に関してはヘドロでできた中洲にヨシが生い茂って天然ビオトープを形成しているので、わりと恵まれている、そのようなところかと思う。
 中洲にヨシが茂るなど都心の川では真似のできない風流な芸当である。しかも茂みの中からウシガエルの声がする。ウシガエルは生態系を破壊する外来種だそうなのでこれは何とかしないといけないが、それを差し引いても川の中に緑があると生きている感じがする。

戸田市内ウシガエル中州



(補足)
※嫌気性分解や腐敗という用語を便宜的に用いたが、これらは微生物学的には正確でない。しかし微生物学はこの点に関して実に不親切な説明しかしてくれないので、微生物学の入門書を読んで得た私なりの解釈を記したい。

・生物が生きるためにはエネルギーが必要で、エネルギーを得る方法は3つある。
A光合成(植物が葉を通して光のエネルギーを吸収する)
B呼吸(体外から摂取した物質(酸素や硫酸イオンなど)で、やはり体外から摂取した有機物を酸化してエネルギーを発生させる)
C発酵(有機物(例えば牛乳)を、細菌(例えば乳酸菌)が外部のものを使わずに閉鎖的な環境で分解・反応を完結させてエネルギーを発生させる。その結果別の有機物(例えばヨーグルト)ができる)

・このうち「呼吸」には好気呼吸(B1)嫌気呼吸(B2)の2種類がある。
・酸素を使う呼吸を好気呼吸といい、酸素で有機物を酸化してエネルギーを得る呼吸法である。悪臭は出ない。
・酸素を使わない呼吸を嫌気呼吸といい、酸素の代わりに硫酸イオンなどを使って有機物を酸化してエネルギーを得る呼吸法である。悪臭が出ることが多い。 
・また「発酵」は便宜的に発酵(C1)腐敗(C2)の2種類に分かれる。
・ヨーグルトの発酵など人間に利益をもたらすものをそのまま「発酵」(C1)と呼び、それ以外の発酵は「腐敗」(C2)と呼ぶ。
・しかしながら、発酵(C1)・腐敗(C2)はたいてい酸素のない場所で行われるので、嫌気呼吸(B2)と同じ場所で行われがちで両者の見分けがつきにくい。
・しかも普通の人は微生物学上の観点ではなく、「悪臭が出るか出ないか」という観点から分類するので、B2C2を同類項で括って「腐敗」と呼ぶ。
・また、ミカンが傷んでハエがたかるのは微生物学的には好気呼吸(B1)であるが、普通の人的には「腐敗」となる。
・「腐敗した政治」を「発酵した政治」と言わないのもこの感覚によるものといえる。
・なお、本稿では「嫌気性分解」=嫌気呼吸(B2)発酵(C1)腐敗(C2)ということにしたい。

(参考文献など)
目黒区川の資料館(現在閉館)
バカな研究を嗤うな ~寄生虫博士の90%おかしな人生力 (tanQブックス) 藤田紘一郎 技術評論社 平成24年 風変わりな学者の軽いエッセイだが、やることが無茶苦茶すぎて笑える。
おいしい微生物たち 野尾正昭 集英社 平成10年(腐敗と発酵の歴史について分かりやすく、かつある程度専門的に解説してくれる)
微生物生態工学―環境問題解決の原理と実例 大森俊雄・編著 昭晃堂 平成15年(腐敗と発酵と嫌気呼吸の違いを一番明快に解説してくれたのはこの本であった。)

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大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

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