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56 海の家の下水道

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 片瀬東浜海水浴場(神奈川県藤沢市)

 下水道を備えた海の家ができたというニュースが平成26年の夏に報じられた。
 神奈川県の江ノ島近くにある片瀬東浜海水浴場で、砂浜の中に下水管を埋設し、ここに海の家の厨房やシャワーの排水を流すという。砂の中の下水管は近隣の道路直下の公共下水道に接続され、下水処理場で処理される。記事には、
 「このままでは浜がもたないと思った」
という海の家の組合長の発言が載っている。この取り組みは海の家の排水の問題を何とかしたい、という思いから生まれたもののようである。

 よくやった。
 海の家の排水が砂浜に浸透されているという事実は、平成25年の夏に偶然シャワーを浴びた時に知った。
 私は下水道の普及した現代で思いがけなく発見した汚水観察ポイントに興味をそそられたが、これは世間的にはまずい問題である。
 まずい問題ではあるが下水管を砂に埋めて固定するのは難しいだろうからどうしようもないとも思った。
 調べると、この問題が顕在化している海水浴場もあるということを知ったが、汚水をまとめてバキュームカーで回収するにしても貯留しておくタンクの設置が難しいだろう。
 仮設トイレくらいなら休前日の朝に汲み取りをしているのを見たことがあるが、雑排水も、となると量が多いので大変である。夏の間しか営業しない施設のためにそこまで手間と費用をかけられない、というのがこの問題の本質であろう。そう思っていた。
 しかし片瀬東浜ではそれをやったという。しかもその費用の大部分を海の家の組合で賄ったという。これは行かねば。
 
 7月21日海の日、私は海パンをはいて片瀬東浜海水浴場に行った。よく晴れていた。
 早速下水管を探す。が見つからない。
 海の家は海岸線に一列に並んでいるからその裏手に埋設されているのだろうか。しかし裏手の国道に上ってきょろきょろしても、行ったり来たりしてもそれらしきものは見つからない。

 どうもよくない。これではただの怪しい人である。
 仕方がないのでおずおずと組合事務所に行き、下水管のことを訪ねた。すると海の家の途切れたスペースに砂に埋もれたマンホールがあり、これがそうだと教えてくれた。その近くには水洗便所もあった。おおこれか。

  拡大する 片瀬東浜の海の家。よく見るとマンホールが見える。 

 組合の人は地元育ちなので子供の頃から海育ちである。でも昔はシャワーひとつとっても冷水しかなかったという。さっと流しておしまいである。
 でも今は温水が当たり前だからゆっくり浴びてシャンプーもボディソープも、となる。
 排水の問題はこういう変遷の中で出てきた問題のようである。食事のメニューにしても焼肉もあればエスニックもある。この排水処理には往生したことであろう。
 
 マンホールを確認したところでゴーグルを着けて海に入る。
 片瀬東浜は東は小動岬、西は江ノ島に遮られているので水質的に不利な地形であるがそこそこきれいである。きれいといってももちろん伊豆や外房などに敵うものではないが、都心から小一時間で来られる駅前の海水浴場としては合格である。
 この水質はまさか今回導入した下水道の成果ではないはずである。
 下水道に接続しても長年砂浜に浸み込んだ汚れは少しずつ海に染み出ていくし、他の海岸から来る汚れもある。しかし海の家を下水道化するとどのくらい効果があるのか知りたい。そこで小さな川を挟んで500mほど西側にある片瀬西浜海水浴場に行ってみた。
 
 実は片瀬西浜海水浴場は数年前に下水道化されている。
 このことは私も今回はじめて知ったが、実際に行って見ると海岸の奥にコンクリートで整備された階段護岸があり、下水管のマンホールが埋められているのが確認できる。
 護岸の工事をした際に下水管を敷設したようで、西浜の海の家はこのマンホール沿いに並んでいる。するとこの海水浴場は下水道に接続されて数年経っていることになるから、東浜と比較すれば下水道効果が分かるのではないか。
 
 ということで西浜で潜ってみる。
 しかし正直分からなかった。どっちも同じくらいである。どちらも「まあそこそこなんじゃないか」といった程度である。海は潮流でかなり水が入れ替わっているので効果が見えにくいのかもしれない。
 
 しかし効果が見えにくくても出した汚水は浄化されるべきなのであって、少なくとも片瀬西浜と東浜では「今俺が流したシャンプーの泡が砂浜に……」という気まずさからは完全開放される。ラーメンもカレーも食べられる。
 これは大きい。富士山のトイレなどでも言えるが、「環境的な気まずさからの解放」というのは、屋外レジャーの新しい価値になっていくのではないか。私の観察ポイントは減ってしまうが、そういう面白い展開になるのであればそれでいい。


(参考:片瀬東浜の下水道を報じたニュース)
「湘南の浜に水洗トイレ導入 海の家に下水管設置」  朝日新聞DIGITAL 平成26年6月20日
「片瀬東浜 下水管配置で浜再生」 タウンニュース藤沢版 平成26年6月27日
「海の家”排水”の陣 片瀬東浜に下水道整備 県内初」神奈川新聞カナロコ 平成26年7月7日

(参考資料)
片瀬西浜海水浴場の下水道に関する藤沢市議会議事録


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55 この水は飲料水として使用できます

  この水は飲料水に使用できます

 ビジネスホテルの洗面台の蛇口に、「この水は飲料水として使用できます」というプレートが貼ってあるのを見かける。頻度はそう高くないが、建築年代の古そうなホテルではしばしば目にする。

 ビジネスホテルには大抵湯沸し用のポットがあるが、そこに入れる水を供給できる場所はユニットバスの洗面台しかない。洗面台の水も上水道であることに変わりはないからここで汲んでも問題ないけれども、ここは歯を磨く場所であって飲み水を汲むには多少不潔な感じがする。この抵抗感を払拭させるためにプレートが貼られているものと思われる。

 とはいうものの、このプレートは少しくどいのではないかと思う。
 洗面所の水道が上水道であることは誰でも知っていることであり、そのようなことをいちいち表明するのはホテルにありがちな過剰な丁寧さの表れではないか、そう思っていたのである。

 ところがこのプレートはそのためにあるのではないらしいことに気付いた。
 私はある温泉地で銭湯に入っていた。この温泉地には温泉を使った銭湯があり、銭湯料金で温泉に入れる。
 お得なことだと満喫しつつ浸かっていると、洗い場にいる子供が「のどが渇いた」といい、蛇口の水を飲もうとした。すると番台のおじさんが飛んできて、それは飲んじゃいかん、あっちの水道のを飲めという。「あっち」には「飲用水」と描かれた蛇口があった。
 
 あっちの蛇口とこっちの蛇口はどう違うのか。
 
 温泉を引いた銭湯の蛇口から出る水は温泉水である。
 温泉水には微量の砒素が入っていることが多い。砒素は毒性のある物質として知られている。(※)
 人間の体は微量の砒素であればダメージを受けずに済むようにできているので、温泉水に含まれている程度の砒素を飲んでも問題になることはあまりないと思うが、それでも水道法の基準値を超える砒素くらいは入っている。日常的な飲用に適さないのは確かで、よって水道水の蛇口を別に設けているのであろう。
 
 しかしこれが温泉水でなかったらどうか。例えば東京都心の銭湯ならどうか。
 都心の銭湯は褐色の鉱泉水を用いているところもあるが、そうでないところでも井戸水を使っているところは少なからずある。井戸水は温泉水のような問題はなさそうであるが、衛生上の問題で飲用に適しないものもあるから、結論として銭湯の蛇口の水は飲用には適さないということになる。
 
 では旅館の浴場はどうか。
 旅館もわりと井戸水を使う業種である。当然浴室には井戸水を使いたいであろう。旅館の設備に関する規程は自治体によって微妙に異なるので一概に言えないが、厚生労働省の「旅館業における衛生等管理要領」によれば、おおむね次のようになっている。

   6511 旅館

  ・浴室の水が衛生的であることは求めているが、飲用可能であることまでは求めていない。
  ・ただし、共同浴室には「1箇所以上の飲用水の供給設備の設置」を求めている。
  ・また、旅館の設備としては、飲料水を衛生的で十分に供給し得る設備を「適切に配置」することを求めている。
  ・この要領はホテル(=宿泊の態様が洋風であるような様式の構造及び設備を主とする施設)についても適用される。


 この要領の基準を満たせばよいとするなら、「ホテル客室のトイレや浴室にはなるべく井戸水を使用し、飲料水用には上水道を一本引いて済ませればいいのではないか」という考えが出てくるであろう。水道代を節約しようとすれば当然こういう発想はあり得る。
 
 例えば、数年前には東京都内のホテルが井戸水の使用量を過少申告して下水道料金を逃れた、というニュースが報じられた。
 ホテルの用水に井戸水を使った場合、上水道料金はかからないが、排水は下水道に流すから下水道料金を支払う必要がある。下水道料金は上水道がある場所では上水道の使用量に比例して課せられるが、井戸水の場合は配管にメーターを付けておき、この計測値で下水道料金が決まることになっている。しかしメーターを迂回するバイパス配管を作れば井戸水の使用量を過少申告できるという理屈である。
 
 このニュースから読み取れるのは、こういうことが起きることの前提として上水道料金を節約するための井戸水利用がある、ということである。
 東京都の記者発表資料によれば、このホテルは、3年2ヶ月の間に約50,000㎥の水を過少申告していたようである。
 したがって井戸水の供給能力は少なくともこの水量以上ということになる。これを1日あたりに換算すると約43㎥つまり43000リットル。
 ホテルの客室で使用する水量はツイン1室1日あたり500リットルとして86室分。このホテルが井戸水をどう使っていたかは分からないが、客室トイレや浴室の水源として十分使用しうる供給水量だとは言える。
 
 すると件のプレートは丁寧さの現れではなく、そのような使用形態のホテルにおいて飲料用に引いた上水道の所在を明らかにする役割を担っていると言える。
 となると、プレートの張ってあるホテルでは現地の井戸水と水道水の飲み比べができることになる。
 
 これは便利なシステムである。箱根や日光などの山間部では両者の違いはないかもしれないが、東京や名古屋など低地の大都市部では顕著な違いがあるかもしれない。プレートを見つけるのが楽しみになってきた。

(追記)
 その後いい物件に遭遇したので、冒頭の写真をその時のものに差し替えた。
 詳しくはこちら。修正用雑記帳その15「この水は飲料水として使用できます」関連


(参考にした書籍とウェブサイト)
場外乱闘はこれからだ (文春文庫 (334‐1)) 椎名誠 1984年 
この中の「大鼎談・この際だからホテルの疑惑について徹底追及するのだ」で「飲料水」の表記についてするどく追及しており、この当時から存在するシステムであることが窺える。

秋田市のホテル営業等構造設備の基準
この表は分かりやすい。

※ 愛知県衛生研究所の砒素に関する解説ページ
砒素は化学形態の理解が難しい元素ながら、このページの説明はわりと平易に書かれていて理解しやすい。


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54 眠れる森の下水管(後編)

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 国土地理院電子地形図「東京西南部」より抜粋・加筆

  (「53 眠れる森の下水管(前編)からつづく)

 ただし、手掛かりがないわけでもない。
 まず。敷設年不明、ということは東京都下水道局でない者が設置した可能性がある。
 都心の下水道は戦災を経ているので詳細図がないくらいは仕方ないが、いくらなんでも自分で作っておいて敷設年まで分からないとは考えにくい。
 この位置から察するに、帝室御料地時代に排水施設として敷設されたものではないかという推測が出てくる。
 何の排水かというと、一つは同園内の池の余水である。この時に池の余水は下水管への流入が確定付けられたのではないか。
 
 もう一つは上流の邸宅の排水である。
 同園の南側、つまり上流端には東京都の庭園美術館が食い込むようにして立地しているが、同館は旧宮家の朝香宮邸をそのまま保存・公開しているものである。
 なぜこのように大切に保存されているかというと、この邸宅がかつてフランスで流行したアール・デコ様式を取り入れた珍しい建築だからである。着工は昭和6年で竣工が同8年。しかも貴重なことに当時の姿で現存している。
 ということであるが、実は私はアール・デコなるものが何なのかを知らない。
 全く恥ずかしい話であるが、では、ということで建築の書物を調べても、なんとこの用語の定義が判然としない。アール・デコという用語は、世に喧伝されているわりには理解の難しい概念のようである。そこでいつものように分解してみる。
 
 「アール」は、フランス語のartで「芸術」「美術」
 「デコ」は、フランス語のdecoratifの略語「deco」で「装飾」
 
 合わせると「装飾美術」。何のことだか分からない。装飾美術だったら和室の欄間も装飾美術である。
 そこでさらに調べると、この用語は1925年(大正14年)にパリで開催された"Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels Modernes"という博覧会の名称に由来しているという。
 直訳すると「装飾美術と現代工業美術に関する国際博覧会」。
 
 装飾に用いられる芸術に、工業的な手法を用いることを追及したイベント名と推測され、要するに「工業的装飾美術」である。産業革命の成果が徐々に欧州に浸透し、装飾分野にまで及ぼうとした時代を想像させる。
 私ごときが簡単に論じてはいけない気もするが、「アール・デコ」という洒落た用語の裏には、迫り来る工業化がもたらすコストカットと美術デザインの折り合いを付けなければならなかった切実さが潜んでいると見た。

  地下鉄入口看板
     私の中でのアール・デコのイメージ(パリ市5区)。原色使いと地下鉄を記号化しようとする意匠がアール・デコっぽい(と言ってみる)。
 


 そうであれば、ここで次のようなことが言えると思う。

 「アール・デコに汲み取り便所は似合わない」

 欧州近代工業の産物であるアール・デコ建築に日本式農業の産物である汲み取り便所を組み合わせるのはまずい。ということで、この朝香宮邸の邸宅の便所はバスルームと一体化した水洗式の洋式便所である。
 昭和6年というと水洗便所が東京や大阪のデパートで使用され始めた頃であったから、技術的に十分設置可能である。
 
 ここで昭和2年に開通した下水道白金幹線が俄然意味を持ってくる。この下水幹線は同園北側の白金地区を通っている。
 これを引き受ける芝浦下水処理場(現芝浦水再生センター)の完成は昭和6年。朝香宮邸の着工も昭和6年。
 するとこの下水道を使えば高価な浄化槽なしに水洗便所が付けられる。同邸の位置は自然教育園(当時は御料地)南側だが、園内の谷戸を縦断して北側まで排水管を通せば白金幹線はすぐそこである。しかも排水管のルートは長く急な下り勾配なので流下に全く支障はない。これを使わない手があるものか。
 ということで、朝香宮邸は現自然教育園内に排水路を作ったのではないか。
 これがAの下水管の原型となり、の昭和42年に行ったのは新設工事ではなく、既存下水管の全面改修程度の話だったのではないか……さあこれでどうだ!

  下水管ルート上の湿地(木立の向こうは白金6丁目) 下水管ルート上の湿地(木立の向こうは白金6丁目)
 
 この推測の真偽を明らかにするには朝香宮邸の排水が浄化槽処理でなく、下水道直結であったことを証明すればよい。そこで宮内庁の公文書館に行き、『朝香宮邸新築工事録』という文書の中の配管工事の設計書を読む。
 
 すると推測はまたしても外れていた。
 朝香宮邸の裏庭には「分離槽」と「酸化槽」が設置されている。「分離槽」は今でいう単独浄化槽の沈殿槽、「酸化槽」は散水濾床であろう。朝香宮邸はなんと浄化槽処理なのであった。
 しかし次のようなことも分かった。

 ・「酸化槽」の設置場所、つまり処理後の放流場所は、Aの下水管に近いところにある。
 ・既存の道路側溝を放流先にする設計にはなっていない。

 よく考えると、浄化槽といえども、処理後の水はどこかに流さなければならない。その水の放流先は、Aの下水管に近いところにあるので、この状況を見ると私の推測もまるっきり間違いとは言えないかもしれないが、正解だとも言えない。 
 あまりに仮説が外れるのでだんだんむきになってきた。
 
 Aの下水管は朝香宮邸の敷地外、つまり帝室林野局の御料地内にあるので、その土地の資料を見なければ問題は解けない。
 ここは当時は空き地であったはずだが、昭和7年の朝香宮邸の建築着工前のこの土地の図面が宮内庁の公文書館に保存されている。着工前の図面はあまり参考にはならないがこれを見る。
 
 森林や池や通路の記号が見える中に、一条の線が通っている。
 この線は件の下水管のルートとほぼ同じ場所を辿っている。凡例を見ると、果たして直径二尺八寸(約85cm)の管であった。
 どうやら朝香宮邸ができる前からここには下水管があったようである。この管のルートを上流側に辿ると、なんと同邸を掠めて御料地の西側に出てしまった。そしてそこには「陸軍衛生材料廠」という施設があり、管の出発点になっている。

 なあんだ。
 件の下水管の起源は昭和初期の軍用の下水管なのであった。
 明治以降の軍隊は洋食や洋服に始まって洋船や鉄道に至るまで西洋文明をいち早く取り入れていたから、近代下水道の導入に関してもそれはありそうである。それに下水の処理は衛生のために行うのであるから、「衛生」材料廠が先んじて下水管を整備したとしてもおかしくはない。同時期に御料地内に計画された「ど真ん中ルート」の道路計画も貢献したことであろう。

 気が遠くなるような暑い日であった。
 自然教育園の森を歩いても、やはり下水管の存在は感じられなかった。この下水管は、森の中の小川に抱かれて身を潜めている。
 東京の多くの中小河川が、流路を下水管の敷設スペースとして提供し、上部を人工的なコンクリ親水せせらぎや遊歩道に変えざるを得なかった中にあって、ここではほぼ地上の流れを損なうことなく下水管と共存している。存在を忘れてしまうほどに共存している。


(参考にしたウェブサイト)
東京都庭園美術館リニューアルオープン特設サイト 2014年11月22日にリニューアルオープンする庭園美術館。トイレに行くのが楽しみである。 
国立科学博物館付属自然教育園のサイト
東京都下水道局下水道台帳

(参考文献)
アール・デコの館―旧朝香宮邸 (ちくま文庫)』 増田彰久(写真) 藤森照信(文) ちくま文庫 平成5年
『アール・デコの時代』 海野 弘 昭和60年 美術公論社(この書籍は、鎌倉の「古書 ウサギノフクシュウ」で入手しました)
朝香宮邸新築工事録 内匠寮 昭和6~8年(宮内庁書陵部宮内公文書館所蔵)
白金御料地内朝香宮邸建築用工作場敷貸付区域図 帝室林野局資料 昭和7年(宮内庁書陵部宮内公文書館所蔵)


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53 眠れる森の下水管(前編)

 恵比寿三丁目の長い坂  恵比寿3丁目の長い坂(上部は首都高速)

 春の夜であった。
 私は東京都港区の地下鉄白金台駅から、渋谷区の恵比寿ガーデンプレイスに向かって歩いていた。
 地図によれば、駅から外苑西通りを北に向かって歩き、首都高速目黒線の高架に突き当たったらそれをくぐって恵比寿の住宅街を西に突き進むと恵比寿ガーデンプレイスに着くはずであった。
 
 白金台からの外苑西通りは緩い下り坂である。しかし首都高速目黒線の下をくぐって住宅街に入ると、一転して長い上り坂が始まった。ケーブルカーのように細くまっすぐぐんぐん上る。結構きつい勾配である。

「してみると……」
 坂を上りながら思った。
 首都高速が通っているあたりは谷ということになり、つまり川が流れているということになる。

白金台付近の地形図
    国土地理院電子地形図「東京西南部」より抜粋・加筆。旧白金御料地の場所は現在の自然教育園。


 都心なので川が流れていても暗渠の下水幹線に化けてしまったであろうから、ここに川面は見えないが、坂の長さと急峻さを見ると、ここにはそれなりの規模の川が流れていたと考えられた。
 この近辺で川というと渋谷川(※)であるが、渋谷川はここから500m北方の天現寺橋付近をかすめて通っているだけなので、この谷とは関係がない。
 ではここを流れていた川は何川か。

 家に帰って調べると、この川は渋谷川に注ぐ一支流であるらしかった。
 『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』という書籍では「三田用水白金分水」という仮称がついている。(こちらでも詳解している。東京peeling!「三田用水と白金村分水」lotus62さん)

 源流はJR山手線の目黒駅と恵比寿駅の間あたり、もともとは渋谷川と目黒川の尾根を走る三田用水という用水路からも補水していたとされるが、今では暗渠にされてしまって姿は見えない。
 このように暗渠化された川は都心に数多い。都市化の中で下水幹線に転用され、上部は遊歩道やただの道路になっていく。
 
 しかしこの川はちょっと違う。
 なぜなら白金分水の谷に寄り添うように、自然教育園という広大な敷地があるからである。
 ここは、上野の国立科学博物館の付属施設で、面積は20ヘクタール、都心にありながらうっそうとした森林や湿地が保全されている。上野の本館で展示できない自然の植物をここで担当しているようである。
 
 ここには小川が何本か流れており、それらは「白金分水」に合流する。
 すると「白金分水」水系の自然河川は完全に失われたわけではなく、一部が自然教育園の中に保存されていることになる。自然教育園の大きさから推測するにその川は都心最長級の自然河川といえそうである。
 私はこの川に俄然興味を覚えた。
 
 数日後に同園を訪れると、深い森の中に自然の池や湿地が広がり、ここが東京都港区だとはとても思えない。
 すぐ脇を首都高速が走っているが、うまく覆い隠されている。園内は3本の谷戸が走り、水は谷戸の奥から流れ出し、園内の池に注いで湿地帯を流れ、園外に出ているようであった。

 「ここから湧き出て流れ出た水が湿地を潤し、やがて渋谷川に注ぐのです」
 園路ですれ違った観察ツアーのガイドの説明が聞こえる。なるほど確かにそうだなあ。
 ここで湧いて小川を流れた水は、「白金分水」に合流するが、最終的には渋谷川に流れ込む。渋谷川は下水処理水を注水することで流れを保っているので、同園からの水は貴重な天然水源ということになる。
 このような緑地があれば、大雨が降っても何%かの水は地中に保留できるし、晴れた時に渋谷川に注いで水質を改善することもできる。
 そんなことを思いつつベンチに腰を下ろすと、モヤモヤしたギモンが湧いてきた。
 
 「自然教育園から出た水は本当に渋谷川に注いでいるのか?」
 
 自然教育園から水が流れ出しても、外は密集住宅地である。
 かつての川は下水幹線に化けてしまっているからそこに流すしかない。道路側溝のような所に流すのだとしても、このあたりの下水道は合流式だからやはり下水幹線に行き着いてしまう。
 雨水専用管が増設されているエリアだと無事に渋谷川に誘導されるが、残念ながらこのエリアにはないので下水処理場に直行である。
 
 もったいない。
 気になってきたので、自然教育園の水の行方を調べることにした。本当にそういう残念なことになっているのか?
 
 自然教育園の水は、自噴する湧水だけでは賄えないので11~14%程度の水を地下水揚水で、さらに5~18%程度の水をポンプで循環させている。
 割合が変動するのは降雨が多い年と少ない年があるからであるが、概ね3割程度が人工の手が入った水と言える。
 この園は西側を高速道路、南側を目黒通りに挟まれ、その地下には地下鉄が水源の源頭である目黒駅に向かって貫通しており、これらの区域には雨の浸み込む地面はあまりない。この不利な状況を鑑みると、7割の水を自噴の湧水で賄えているのは優秀といえる。
 
 同園の水は下流の湿地と池に集まり、一部はポンプで上流に還流させるが、余水は園外に流れる。
 同園の調査報告によれば、余水は昭和58年頃までは地中に埋設されたマツ材の木製暗渠で排水していたが、これが崩壊したので新たに排水溝を掘削した、とある。
 ただし残念なことにその排水先は明らかにされていない。そこが知りたい。
 
 そこで自然教育園を出て北側に回り込んで、自然教育園の余水が出てくると思しき場所に行ってみる。すると「日東坂下遊び場」という児童遊園があり、その脇に「東京下水道 合流」と刻印されたマンホールがあった。

 「遊び場」は南側を自然教育園の壁、北側を細い区道に遮られているが、区道の向こうにも長細い植栽スペースが30mほど続き、首都高速の高架下の道路に突き当たって終わっている。この一見不思議なスペースがかつての川跡で、その地下の下水管を余水が流れるのか?と思われたが、これと直交する形で川跡らしき曲がりくねった路地があり、どうもよくわからない地形である。ギモンを解きに行ったのに余計なギモンが増えてしまった。

日東坂下遊び場 謎の植栽スペース
(左)手前が日東坂下遊び場、奥が自然教育園         (右)手前が謎の植栽スペース、奥に日東坂下遊び場と自然教育園

 仕方がないので家に帰って、再度東京都の下水道台帳を確認してみる。すると予想外のものを見つけた。
 自然教育園の森と湿地と沼の地下を貫通する下水管が描かれている。
 内径90cmの鉄筋コンクリート管で、南の目黒通りから自然教育園を南北に貫通して「遊び場」地下の下水管に繋がっている。あのうっそうとした森とヨシの生い茂った湿地の下に下水管が通っている。これは意外なことであった。

下水管ルート図自然教育園と下水管ルート(自然教育園の案内看板画像に加筆)

 下水管というものは長細い溝を掘って中に砂利を敷いて管を埋めて土をかぶせてしまえばできてしまうのであって、そこに後から木が生い茂ったりヨシが生えてしまえば「深い森の中の下水管」や「広大な湿原の中の下水管」はできる。それはそうなのであるが、この下水管にはどうしても不可解な点がある。

 それは、この下水管は公道の下に設置されていないということである。
 下水管は原則として公道の下に埋設される、というルールがあることを、以前公共溝渠のことを調べていたときに知った。
 たしかに私有地に埋設してしまうと、下水管が壊れて工事する時に所有者に断りを入れなければならないから不都合である。国公立の学校や公園の敷地ならそういう問題は軽減されるかもしれないが、例えば東京大学でも上野公園でも新宿御苑でもこのルールは守られていて、三四郎池や不忍池や玉藻池の地下に公共下水道はない。
 
 しかるに自然教育園では、そのど真ん中を、しかも中核施設とでも言うべき湿地帯を貫通している。通っている下水管は目黒駅東側エリアの下水を芝浦水再生センター方面に流すという重責を担っているが、下水道台帳図上では埋設場所の深さ、勾配、標高全て不明となっている。
 これはどういうことか。そこで別の方面から調べることにした。
 
 参照した資料は『自然教育園50年の歩み』という記念誌である。
 自然教育園は室町時代は豪族の屋敷、江戸時代は武家屋敷、明治時代は海軍弾薬庫、大正昭和は帝室御料地という、比較的開発圧力の小さい土地利用だったために自然の生態や地形が比較的温存され、これが戦後に注目されて当時の片山内閣が自然観察の場として保全することを閣議決定したという。

 しかしその後が大変であった。戦災復興や人口増、オリンピック、道路建設に地下鉄建設と、迫り来る開発圧力が戦前の比でない。ここに何かヒントが隠されていないだろうか。
 
 本書をひも解くと、この自然を守るのにはいろいろな困難があったことが分かる。
 保全決定後からしてがまずひと悶着である。文部省所管の自然「教育」園にしようとしたら、厚生省が「これは国民公園なのだから厚生省に引き渡せ」と言い、建設省が「これは都市公園であるから建設省に引き渡すべし」という。この時は世論が文部省案を推し、管理していた大蔵省もその方向で処理したために自然が保たれた。
 
 しかし文部省が管理したから安心かというとそんなことはなく、園内に食い込むように立地している朝香宮御用邸跡(今の庭園美術館の場所)を不動産会社が買い取ってホテルを建設しようとしたとか、外苑西通りの拡幅計画とか、恵比寿ガーデンプレイスの開発で地下水が枯渇しそうになるとか、正門前の目黒通りが拡幅されて園地が削り取られるとか、その下に地下鉄南北線が建設されるなどピンチは次々に襲ってくる。
 同園はそのたびに対策を迫られた。
 例えば地下鉄白金台駅のホームが地下深くにあって階段がホームの両端にしかないのは、地下水脈の分断を最小限に抑えようとした結果である。
 
 しかし同園の歴史を振り返ると最大の危機は、設置当初に持ち上がった首都高速目黒線の建設といえた。
 首都高速目黒線は、西五反田付近から白金、天現寺を経由して都心環状線に接続する高速道路で、その計画は昭和25年に公示され、昭和42年に開通した。
 現在自然教育園の西側をぐるりと囲んでいるが、囲んでいるというよりは削り取ったと言うほうが正しく、おかげで同園は外周部の森を0.69ヘクタール喪失し、一部の土地が分断されて飛び地になった。
 高速道路の直下には一般道路の補助17号線がトンネル形式で併設され、これらが発する騒音や排気ガスや夜間照明が、自然教育園の生態系にかなりのダメージを与えたことは想像に難くない。
 
 首都高速2号目黒線と飛び地
 
  首都高速(左)に分断された自然教育園の飛び地(右)。本園は青帯の壁の向こうの道路のそのまた向こうにある


 しかしこれでもましな結果なのであった。
 なんと昭和25年に公示された建設ルートは、現ルートとは違って園内のど真ん中、湿地帯と小川と沼をつぶして通す計画になっていた。
 これが実現すると同園は二つに分断され、水辺のほとんどが失われる。この計画は東京オリンピック開催を視野に入れて策定されたもののようであるが、前年に自然教育園が「豊かな自然を国民に提供しよう」というコンセプトで開園したことを念頭に置くと、あり得ないルート選定である。
 当時の報道によれば都市計画を所管する東京都が配慮を怠っていた、というような事情があったようであるが、この計画には反対運動が巻き起こり、妥協案として昭和34年に現ルートに変更された。
 
 さて、この変更前の「ど真ん中ルート」をよく見ると面白いことが分かる。
 ルートを北に向かってなぞると、件の「遊び場」謎の植栽スペースの上を通り、首都高速目黒線のルートに合流する。しかもこのルートだと首都高速はカーブが少ない理想的な線形になる。

 ギモンが解けてきた。
 どうやらこのスペースはど真ん中ルートで開通させるべく自然教育園境界手前まで確保していた道路用地が、その後のルート変更で盲腸のように残ってしまい、「遊び場」として利用しているもののようである。道路用地であるものを暫定的に利用しているので「公園」とは呼ばずに「遊び場」なのであろう。

 これを念頭にもう一回下水道台帳図を見る。
 すると「ど真ん中ルート」は下水管の敷設ルートにぴったり重なる。なるほど。この下水管は将来の道路建設とセットになっていたのであるか。
 ルート変更で道路は建設されなかったが、地下の下水管だけは先に作ってしまったのであろう……妙な工事の仕方であるが、そのように私は推測した。

 さてしかし、このルートは昭和25年に決定されたものではなかった。
 昭和2年の『大東京都市計画道路網図』という地図にこの「ど真ん中ルート」の計画線が引かれている。この計画は関東大震災後に東京の市街地が山の手方面に膨張していったことに伴って策定されたものであるという。

 この時代背景を考慮に入れると、ど真ん中ルートの自然破壊的な発想はさほど不自然ではない。
 当時は小川の流れる谷戸など珍しくもなかったであろうし、震災対策のためには自然よりも広い道路を欲したに違いない。
 現代人が郊外の山林を貫通するバイパス道路を作るような感覚に近いかもしれない。 

 ど真ん中ルートの起源がここまで古い都市計画にあるのだとすると、いかに自然教育園内とはいえ、これはれっきとした「未来の道路予定地」である。しかも建造物は何もなくて所有者は行政機関である。そのような場所に先行して下水管を敷いておくことに何の不都合があろうか。そこで昭和初期から34年の計画変更までのある時期に敷設されてしまったのではないか。そうに違いない!

 この仮説の真偽を確かめるには下水管の敷設年を調べればよい。
 敷設年と図面は東京都庁の下水道台帳閲覧室で公開している。結果は次のとおり。

 A 目黒駅東側から自然教育園を通って同園北端付近まで: 昭和42年。ただし詳細図なし。
 B 同園北端から「遊び場」と謎の植栽を通って下水道白金幹線まで: 敷設年不明。詳細図なし。
 C 下水道白金幹線: 昭和2年 詳細図あり。

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 国土地理院電子地形図「東京西南部」より抜粋・加筆。旧白金御料地の場所が自然教育園、旧朝香宮邸が庭園美術館。


 なんと仮説ははずれであった。
 同園内のA下水管の敷設は昭和42年。昭和34年の計画変更で同園内に公道が通らないことが決定して8年も経ってから敷設している。
 公道になる見込みがなくなった場所に、しかも森と湿地の地下にあえて下水管を新設する……
 どうも理由が分からない。謎解きは振り出しに戻ってしまった。   (「54 眠れる森の下水管(後編)」につづく)


※「渋谷川」は上流部の呼称で、下流部は「古川」と称し、この付近は両者の境にあたるが、文中では渋谷川に統一する。


(参考文献)
地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』 本田創 編著 洋泉社 平成24年
『自然教育園 50年の歩み』 国立科学博物館附属自然教育園 平成11年(東京都立中央図書館で閲覧可能)
大都会に息づく照葉樹の森―自然教育園の生物多様性と環境 (国立科学博物館叢書) 東海大学出版会 平成25年
『東京地下鉄道南北線建設誌』 帝都高速度交通営団 平成14年(東京都立中央図書館で閲覧可能)

(参考にしたウェブサイト)
東京peeling!「三田用水と白金村分水」 lotus62さん
国立科学博物館付属自然教育園のサイト 同園までは源頭の目黒駅から地下水脈のルートをたどって徒歩7分。
『自然教育園(旧白金御料地)外周土塁の調査』 岡本東三(自然教育園報告15,33-42,1984-03に収録)
大東京都市計画道路網図(昭和2年)(品川区長期基本計画(改訂版)に一部収録)
東京都下水道局下水道台帳


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大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

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(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

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(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

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(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
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その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
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