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12 どぶ板通り商店街

どぶ板通り

 どぶ板通り商店街は神奈川県横須賀市の米軍基地の正門近くにある。
全長約500m、かつて米兵向けのバーが立ち並んでいた通りで、今でも「アメリカンな横須賀」を味わえる一角である。私がこの商店街に関心を持ったきっかけは、当然そのユニークな名称である。

 ところがこの商店街を訪れて私はがっかりした。この商店街にはドブ板もドブ川もなかったからである。広い路面はカラータイルで舗装され、ドブ板を模した縞模様のデザインが施されているだけである。さらにがっかりなことに、商店街の名称の由来となったドブについての資料が乏しい。かろうじて分かったのは次のようなことである。

・かつてここには道の中央にドブが流れていたが、通行の邪魔なので軍の払い下げの鉄板を敷いた。
・明治38年の地図にはすでにドブの姿はなくて「どぶ板」の名称がある。

 どぶ板通り商店街はドブにフタをしてからすでに100年以上も経った商店街のようである。
 100年以上も「どぶ板」などという妙な名前を愛用しているわりに、そのドブの正体が気にとめられていないことに驚きというか無頓着さを感じた。どぶ板通りが語られるときテーマになるのは、きまって店の紹介や、そこに関係したミュージシャンなどである。
 
 もっとドブのことを気にしてくれてもいいではないか。
 ドブというものはいつもそうなのだ。「それは金をドブに捨てるようなものだ」とか「ドブ板選挙」などと軽々しく使われる割に、その正体はまるで存在しなかったかのように無視され続ける。どぶ板通り商店街には特にそれが現れている。
 思わず憤ってしまった私であるが、やがてそれが収まる日が来た。何度目かのどぶ板通り来訪で、ついに本物のドブ板に遭遇したからである。
 どぶ板通り商店街から少し離れたさいか屋というデパートの裏の道を歩いていると、細く薄暗い細道が交差しているのが見えた。細道は幅2mほどで、路面は周りより一段低い場所を通っている。その路面は、と見ると古ぼけた巨大なコンクリートのドブ板であった。

ドブ板細道
ドブ板細道

 私はその細道に入り込んでドブ板を踏んでみた。
 ドブ板は頑丈なつくりで、踏んでもボコボコと音がしたりはしなかったが、ドブ板にあけられた穴からはドブの水面が見えている。こういうドブ板は今は珍しい。ドブ板細道の周りには小さなスナックやバーが立ち並ぶ。
 ちなみに昭和30年代の地図を見ると、当時も同じようにスナックや旅館が立ち並んでおり、昔からこんなドブ板細道だったようである。
 
 ドブ板細道を進んで行くと、大通りに出た。
 バスの行き交う通りの向こうを見ると、例のどぶ板通り商店街が始まっていた。
 つまりこのドブ板細道のドブはどぶ板通り商店街を流れていたドブなのであった。まさに正真正銘「どぶ板通り」である。しかもこっちの方があやしくて雰囲気がある。

 さて、このドブは元はどんな川だったのであろうか。
 このドブはもともと川だったはずだから、川が流れてしかるべき地形的要因があったはずである。
 残念なことに今の横須賀は、元の地形が分からないほどに海面の埋め立てが繰り返されたので、このドブの地形的な関係が推測できない。なにしろ今商業地や米軍基地のある平地部分は、ほとんどが明治以降の埋立地なのだ。 しかし江戸時代の絵図を見ると、どぶ板通りのドブのポジションがはっきり見えてくる。
 
 江戸時代の横須賀は、海に迫る急峻な丘(現在の横須賀中央駅裏の丘)、そこから東京湾に向かって延びる細長い岬(現在の米軍基地)、そして丘と半島の間にある細く狭い平地(現在の本町)から成っていた。この平地の部分は「横須賀」という浜(現在の国道16号線小川町交差点あたり)に向かって開けていて、漁村の集落がへばりついていた。

 どぶ板通りのルートはこの細長い平地の真ん中を貫いている。現在のどぶ板通りの下流側は、前出のあやしげな細道となってしばらく続いた後、国道16号線にぶつかって姿を消すのだが、ここが江戸時代の横須賀の海岸線にあたる。つまりどぶ板ルートのドブはここで海に注いでいた。
 重要なのはここからである。明治7年、ここに小さな港が作られて港町・横須賀の端緒が開かれた。

 港を作るのに必要な条件は3つある。波が穏やかな入江であること、水深が深いこと、そして船や物資を引き上げる緩い傾斜の平地があること。
 港には運んできた物資を引き揚げる荷捌場や、船ごと引き揚げてるスロープが必要である。面白いことにこれが決まって入り江の小さな川の河口の横に作られる。なぜ河口の横に港を作るのか。

 入江の川の河口は、周りを急峻な岬に囲まれながらも小さな平地を作ることが多く、これが前述の3条件を満たすからである。
 たいていの港町は入り江の河口の小さな港から出発し、その背後が「元町」と呼ばれる商業地となる。横浜や神戸のような大型港も、大きな船が着けるように後から入江の外側に大規模な埠頭を追加建設していっただけで、もとは入り江の河口付近の港から出発した。
 
 横須賀の場合はどうか。横須賀は軍港があるので少し事情が特殊(※)であるが、明治7年に作られた港はどぶ板ルートの河口に位置し、その背後に元町(現在の本町)が作られている。位置から察するに、どぶルートを流れていたであろう川が「入り江の河口」の役割を果たしているのではないか、私はそう考えた。

旧小川港
かつて港だった地点(手前からヤシの木のあるあたりまで)から、ドブ板細道の「河口」(中央のグレーのビルの左端)を見る
 
 考えた、と若干歯切れが悪いのは、証拠がないからである。
 横須賀には江戸末期に描かれた絵図が何枚かあるが、そのどれを見てもどぶ板通りの場所に川はない。絵図には相当小さな川であっても姿が描かれるはずであるから、描かれていないということは実際には存在しなかった可能性もある。
 しかし丘と岬の間の低地という地形的な条件を見れば、そこに小さな川が流れていたと考えるほうが自然だし、絵図には書いてなくとも実際にドブ跡はそこにある。
 そのようなわけで若干疑問符は付くが、どぶ板通りを流れていたドブは、港町横須賀のルーツの港のそのまたルーツであった、そのように言ってみたいと思う。

 軍港として明治の初期から栄えた横須賀はかなり早いタイミングで土地が不足し、このドブも早い段階で暗渠にされたと考えられるが、証拠も不確かでなおかつ暗渠化されて100年以上経ったドブの名が生きているのは、横須賀を産んだこのドブ、いや川に敬意を表してのことなのではないだろうか。

大正4年横須賀市全図
横須賀市全図(大正四年横須賀市統計書附録 横須賀市中央図書館蔵) クリックすると拡大します
北に伸びる半島が現在の米軍基地、その南東に旧港、どぶ板通りは「元町」の町の字のあたりを旧港に向かって走る。半島の西の湾は軍港、その西に横須賀線横須賀駅。


※今の米軍基地のある場所(横須賀市泊町)には昔、水深の深い静かな入り江があり、これが軍艦に適していたことから軍港として利用されたという。

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プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

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