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20 ボットン便所の終焉

 下水道の普及した都市に住んでいる人がドブ川を見ると、「なんだいまだにこんなものがあるのか」と思うかもしれないが、下水道を敷いてドブ川を駆逐するというのは、住民にとっては結構大変な事業である。
 何がどう大変なのか。
 
 川崎市の下水道は平成バブル期に精力的に作られた。
 下水道普及率で見るとバブル前の昭和62年には57.0%だったものが、バブル崩壊後の平成3年には77.6%、平成6年には91.4%と急上昇する。普及は南部の川崎区から始まって、中部の中原区、北部の多摩区などへと進んでいった。
 
 これは数字で見ればすばらしい近代化だが、私は中原区の下水道普及の最終段階の頃(昭和50年代)に当地で小学生時代を過ごしたので、その頃のスッタモンダを少し覚えている。
 
 中原区は細長い川崎市の真ん中に位置している。
 武蔵小杉という近年急速に再開発された街を抱えているが、もともとは水田の広がる低地を昭和20年代に住宅地化したところなので、農業用水路の遺構だらけであった。
 用水路の遺構はたいてい幅1mくらいで、ガタガタするドブ板がはめられて人一人が通れるくらいの抜け道として使われる。ドブ板のすきまからはほんのり下水のにおいがしたが、フタをしているためかそんなにくさくはなかった。昭和50年代にもなると中原区もだいぶ下水道が整備されていたので、それほど多くの下水が流れなくなっていたのかもしれない。
 
 いっぽう、開渠のドブはくさかった。近所のアパートと寺の境内の間を流れるそのドブはいつも黒く澱んで蚊が多かった。この水はおそらく、生活排水というよりは雨水が滞留したようなものではなかったかと思う。アパートに住む友達は、時々ドブに消毒薬を撒くのだと言った。古地図を見るとこのドブも元は二ヶ領用水の支流の農業用水だったようである。
 
  中原区の二ヶ領用水
  (参考)いつもながら二ヶ領用水円筒分水の案内図(クリックで拡大)


 我が家の一角にはまだ下水道が来ておらず、昭和33年築の我が家は昭和59年に引っ越すまでボットン便所(※)であった。この便所はとにかくくさく、目を刺すようであったが、ドブのにおいとは異なっていた。
 おそらくボットン便所の目を刺すようなにおいはアンモニア臭であり、ドブのにおいは硫化水素臭であったのだろう。
 便所以外の生活雑排水は家の裏の細いドブに垂れ流しで、宿題の水彩画を描いた絵の具の水を流すとその色の水が出た。ドブを覗き込むとイトミミズなどが見えたが、ドブ自体が幅20センチくらいの細いものだったのでくさいと思うことはなかった。その排水がどこに流れていたのかは知らない。かつての農業用水路や道路側溝を伝って二ヶ領用水や多摩川に流れていたのではないかと思う。

 近所の友達の家はほとんど水洗であった。
 風呂無しアパートであってもトイレは水洗だったし、小学校も昭和55年頃にはボットン便所がなくなった。下水管が延びてきたところから順次水洗化されていったのであろう。

   ボットン便所断面図 我が家のボットン便所断面図(筆者の記憶による)

 
 我が家のトイレを水洗にしようかという話が出たのは、昭和57年頃だったと思う。ようやく市の下水管が家の前まで延びてきたからである。
 ところがそのための工事費用が意外と高額であることが判明する。
 我が家が建ったのは昭和33年。便所が水洗になることなど想定していなかったそうで、配管スペースのとれない敷地の奥に便所がある。したがって工事費がかさむ。さらに便器の取替えや便所の改築、便槽の撤去の費用もかかる。そうやって高額の工事をしたとしても我が家は築24年でもう相当に古かった。
 
 そこで面倒になった私の親はニュータウンへの引越しを決めてしまう。
 コストを考えると、下水道への接続というのは正直あまりやる気の出ない設備投資なのであった。ボットン便所が水洗便所になるという劇的なメリットがついていてさえそうなのだから、現代の浄化槽付きで既に水洗になっている家がわざわざ下水道に接続したがらないのは、気持ちとしては分かる。
 
 昭和57年の川崎市の下水道人口普及率は44.6%。この時期を境に川崎市は、北部市域の下水整備に乗り出し、合流式(雨水と生活排水を混ぜて下水処理場に流す)から分流式(雨水は川に流し、生活排水だけを処理場に流す)に転換していった。
 
 30年経って、今それらの場所を歩くと次の点が変わっている。
  ・用水路遺構のドブ板細道のいくつかがアスファルト舗装されて、地下に下水管が埋まっている。
  ・私の住んでいた家の裏に下水管が通った。
  ・アパート裏の開渠のドブにフタがされた。
 いっぽう、他のドブ板細道は昔のまま放置されて残っていて、そのあたりの風景は昔と変わりがない。
 フタの隙間から中を覗くと、下水管は埋まっておらず、水が少したまって駄菓子の袋などが落ちている。おそらく雨天の時だけ水が流れているのであろう。
 こうしてみていくと、中原区内の水路は、

 ①二ヶ領用水の支流として農業用に利用(戦前まで)→②宅地の排水路として利用(昭和50年代まで)→③一部を下水路に転用してアスファルト舗装→④その他は雨水を流すドブ板細道として放置(現在)

 という変遷を辿っていることになる。この変遷パターンが遊園ラビリントの汚水のなぞを解く鍵になる。(つづく)


※水洗式でない汲み取り式便所の俗称。浄化槽付きの水洗便所を「汲み取り式」と呼ぶ人もいるので、ここでは俗称のボットン便所を使った。ボットン便所における最大の恐怖は、においでも巨大な穴でもなく害虫の存在であった。

参考文献:世田谷古地図(昭和4年当時)世田谷区都市整備部地域整備課が平成19年に発行して販売しているもの
       論説「都市経営への参加の一形態」 奥村□一(□は「直」の時の下に「心」)
      横浜国立大学学術情報リポジトリ所蔵(川崎市の下水道の普及の経緯が詳細に書かれている)

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プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

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「日本のドブ川」カテゴリを廃止して「法律からアプローチする」を新設しました。ドブ川を全国レベルで捉えると、どうしても法律の話メインになるのでこのように変更しました。(H26.11.15)
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