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34 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(後編)

土管壁 愛知県常滑市内
33 豊橋の下水処理場はなぜ全国4番目なのか(前編)から続く)


 明治初期、日本で一番下水道が整っていたのは大阪であった。
 豊臣秀吉の時代から下水を流す暗渠がそれなりに作られていたからである。
 そこに外国人居留地を背景にした横浜、神戸、首都整備を背景にした東京が参入する。
 
 さて、ここで「下水道」と呼んでいるのは生活排水を流すための側溝や暗渠程度のものである。
 私たちは下水道というと「汚水と雨水に分かれて下水処理場までつながる排水網」と考えがちだが、ここに落とし穴がある。下水道は上水道と違って、要求される機能が時代によってめまぐるしく変わるところに特徴がある。下水処理場のパンフレットはこの点に触れてくれないが、この特徴をつかまないと謎が解けないのでまとめてみる。

 ステップ0 下水道を真剣に考えなくてよい段階(西洋人がコレラなどの伝染病を持ち込む前の日本はそれほど排水の衛生を考えなくてよかった)
 ステップ1 「下水道は、伝染病予防のために、生活排水を土に浸み込ませずにすばやく流す設備である」という段階
 ステップ2 「下水道は、浸水被害を防止するために、生活排水と雨水をすばやく流すための設備である」という段階
 ステップ3 「下水道は、水洗便所を可能にするために、下水処理場で汚水を浄化するための設備である」という段階
 ステップ4 「下水道は、川と海の水質を改善するために、高度な処理を行うための施設である」という段階 


 現代人はステップ4の感覚で下水道を捉えている。下水道がなくても水洗便所は可能だが、単独浄化槽や合流式下水道では川が汚れるので分流式で高度処理の下水道があったほうがいい、という感覚である。でも明治時代はステップ1だった。

 ステップ1の先頭集団は、上に記した大阪、横浜、神戸、東京である。
 ステップ2の時代になると大阪と東京が抜きん出るようになるが、なかなか進まない。原因は、費用がかかりすぎることと、明治22年の「東京市下水設計第一報告書」で、同じく費用のかかる上水道整備の優先が決定し、下水道が後回しにされたからである。上水道の方が伝染病対策としては即効性があるから仕方ないことではあった。

 ここでいきなり脇道に逸れるが、この報告書を策定したメンバーには内務省衛生局の官僚としてロンドン万国衛生博覧会を視察した永井久一郎がいる。当時下水道に関わった官僚は下水道一筋に奉職していくのに対し、永井久一郎はそのようなこだわりがなかったのか、文部省、日本郵船と転じて、最終的に趣味の漢詩に打ち込んでしまう。このことと彼の息子が荷風であることを併せて考えると「やはり」と思う。永井久一郎は名古屋の出身であった。

 さて、大正時代になると都市計画法という法律ができ、これが下水道に光明をもたらす。
 ある都市が「都市計画法で整備すべき都市」として認定されると、下水道を作った時に下水料金を徴収できることになったからである。こうすると費用の問題が少し解決する。そしてこの時期にイギリスで発明された下水処理法が日本に伝わり、ステップ3の時代になるが、ちょうど運悪く関東大震災が起き、東京や横浜は復旧作業に追われていく。
 
 ここで名古屋が彗星のごとく登場する。
 
 試行錯誤した東京や大阪と違い、名古屋の下水道は満を持して都市計画法を活用して行われた。
 岐阜と豊橋も同じである。都市計画法と、折からの不況対策として始まった失業対策事業を駆使して電光石火で下水道を整備してしまった。この3都市が全国の他の都市と違うのは、他の都市がステップ2の設備(下水幹線)しか作らなかったのに対し、ステップ3の設備(下水処理場)まで作ってしまったことである。

 しかもその処理方法には最新式の処理方法が採用された。
 大正11年に完成した東京の三河島処理場は「散水ろ床法」(砕石を充填した層に汚水を撒き、砕石表面の微生物に分解させる)という旧式の処理法であったが、イギリスのマンチェスターでは「活性汚泥法」(汚水に空気を吹き込み、微生物に分解させる)という新方式が大正2年に開発されていた。
 名古屋は後発のメリットを生かしてこれをいち早く導入した上に、一気に3箇所も作ってしまった。岐阜、豊橋もこれに倣う。
 
 この間、例えば横浜市と八王子市はともに失業対策として下水道工事を実施したが、下水処理場の建設まではしなかった。もちろん濃尾平野に低湿地が多くて水はけが悪かったという事情もあるが、最新式の下水処理場まで作ってしまったのはやはり彼らの合理性というものであったと思う。下水処理場を「都市計画に内蔵すべき装置」として捉える思考があったのだと思う。特に豊橋市長の丸茂藤平は最初からこのあたりのことがよく見えていたであろう。
 
 と、このようなことは下水道史などを読むと大体分かる。
 しかし下水道史はたいてい下水道局の人が書いているので当然下水道賛美になる。
 「本当は浄化槽でもよかったかもしれないですけどね」とは書かない。これでは気持ち悪いので別な角度から珍説を仕立て上げてみた。名づけて「名古屋便器都市説」。この説は『水洗トイレの産業史』という本を読んでいて浮上した。
 
 この本によれば、日本の便器メーカーはシェアの高い順に、TOTO(旧社名:東洋陶器)、LIXIL(旧社名:伊奈製陶、ブランド名・INAX)、ジャニス工業(旧社名・西浦製陶)、アサヒ衛陶で、この4社で98%を占める(平成17年現在)。
 
 TOTOは北九州市の企業であるが、もともと日本陶器というメーカーの衛生陶器製造部門の会社として設立された。日本陶器は名古屋駅近くの則武という場所で輸出用食器を作っていたメーカーで「NORITAKE」ブランドとして有名であった。これが衛生陶器部門にも進出し、結果的に北九州に東洋陶器を設立する。
 北九州に設立したのは、いい陶土があること、筑豊の石炭を使えること、販売先として有力だった東アジア諸国に近かったこと、とされる。
 では母体の日本陶器はなぜ名古屋で陶器を作っていたかというと、瀬戸・多治見などの陶磁器メーカーの輸出基地が名古屋にあったからである。
 瀬戸、多治見は豊富な陶土を背景とする陶磁器産業の都市であるが、明治以降は欧米への輸出に力を入れたので輸送に便利な名古屋港と名古屋駅周辺が拠点になった。名古屋港からの堀川運河と東海道線が交差するあたりが則武である。つまり強引に結びつけると東洋陶器は瀬戸や多治見の陶磁器産業をルーツに持つ便器メーカーといえる。
 
 2番目のシェアを持つのはLIXILである。
 この会社の前身の伊奈製陶は愛知県常滑市、伊勢湾に延びる知多半島西岸の窯元伊奈家をルーツとしている。常滑は良質の陶土が出ることを利用した陶器の製造で古くから知られている。伊奈製陶はもともと日本陶器の支援を受けて陶管の製造からタイル製造を始め、トイレのタイルを一体施工できることを強みに便器分野を伸ばし、今ではアルミサッシメーカーと流し台メーカーと門扉メーカーと合併して現社名になっている。
 
 3番目のジャニス製陶も常滑市の企業で、陶管と便器を製造していた。この会社の設立には伊奈製陶がかかわっているという。
 残るアサヒ衛陶は大阪のメーカーで、江戸時代の「摂州瓦屋庄兵衛」という瓦製造業者で、赤煉瓦、土管の製造を経て便器に進出した。

 こうしてみると、日本の便器メーカートップ3のルーツをたどっていくと瀬戸・多治見・常滑の陶磁器産業に行き着くことになる。
 その帰結として名古屋には便器メーカーが集積することになる。これらの便器メーカーは水洗便器を製造していたから、そのことが名古屋の水洗便所普及の加速装置として働いたのではないだろうか。
 自動車メーカーが集積している名古屋で道路インフラが東京や大阪よりもずば抜けて整備されているところを見れば、「便器産業が下水道整備を促進する」という関係もありうるのではないか、私はそう考えた。

 もっとも、便器産業が発達してもそれが浄化槽産業と結びついた場合、下水道の進展にはあまり結びつかない。 便器メーカーとしては便器が売れればいいのであって、時間のかかる下水道を待つよりも手っ取り早くできる浄化槽で水洗便器が売れればその方がよい。有力な浄化槽メーカーが集積した戦前の大阪がこれにあたるように思うが、名古屋がそうならなかったのは、浄化槽メーカーがそれほど集積していなかったことによるのではないかと思う。こういったことが名古屋、岐阜、豊橋の下水処理場建設に影響を及ぼしたのではないだろうか。うーん、そうに違いない。
 
 と言いたいところであるが、この説には問題があった。
 
 この説では「ではなぜ常滑や瀬戸は下水道普及率が低いのか」が説明できない。瀬戸は名古屋便器産業のルーツ、常滑は伊奈製陶と西浦製陶のお膝元である。しかし瀬戸市に下水道ができたのは昭和45年、常滑市に至っては平成13年とかなり遅い。常滑市民は市内で大量の便器を製造していながら、なぜ下水道を欲しなかったのであろうか。これはいくら考えてもわからない。したがって常滑の人に聞くしかない。
 
 名鉄常滑線で常滑に近づくと巨大なLIXIL(INAX)の工場が現れる。
 この街にはINAXライブミュージアムという施設があり、歴代の便器が展示してあるという。ここで尋ねれば分かるに違いない。
 ところが残念なことに、このミュージアムは世界のタイルの展示室やおしゃれな陶芸工房を併設するという上品で洗練された施設で、館内のスタッフも上品な女性しかいなかったので、便器の話は切り出せなかった。しかし考えてみれば、現代の便器メーカーは、便器が排泄と下水処理の途中にあるという現実を忘れさせるために工夫を凝らしているのであるからこれは仕方がないことといえる。
 そこで作戦を変えて「とこなめ陶の森資料館」(旧常滑市民俗資料館)に向かうことにする。

 常滑市のドブ川は39.8%という低い下水道普及率のわりにそれほど汚れていない。河床には泥が堆積しているもののこれは干潟の泥に似たものであって、ヘドロ臭はそれほど感じない。
 ただし他の街のドブ川と決定的に違うのは、川底に陶器や陶管(いわゆる土管)のかけらが無数に落ちていることであった。こんなドブ川は初めて見た。
 そして見回して分かったのはこの街は便器メーカーの街である以上に陶管メーカーの街だということであった。街のあちこちに窯の煙突があり、石垣やブロック塀にすべきところに陶管が使われている。庭には使わなくなった陶管が転がっている。

常滑の川底 常滑市内の川(陶器の破片がちりばめられている)
常滑の川底2 陶管もある
常滑駅前の川 常滑駅前の川は若干「古典派ドブ川」である


 しかし陶管というものはまさに下水道に使われる資材である。これほどまでに陶管と運命をともにした街であれば、なおさら下水道普及率が低い理由がわからない。と頭をひねっているうちに資料館に着いたので訊く。どうして常滑は下水道普及率が低かったのですか?

 「下水道というものは、やはり都市部から普及していくわけです」
 この資料館の学芸員はすばらしいことに私のギモンを完全解消してくれた。まとめるとこうである。

 ・常滑の便器や陶管は全国に出荷する商品であって、自分たちが使うために作ったものではなかった。
 ・そもそも常滑の陶管は横浜の新居留地の下水整備に伴って確立した経緯がある。
 ・常滑の陶管は名古屋の下水管にも使われた。
 ・しかし常滑の街は規模が小さく、古くて街路が入り組み、アップダウンが激しいので下水道敷設が難しかった。
 ・とはいうものの下水道がなくても浄化槽を使えば水洗便所が実現できた。


 なんと奇遇なことに常滑の陶管は横浜の下水管に使うためにイギリス人技師の発注で生み出されたものなのであった。資料館の展示パネルには、常滑製陶管が明治のはじめから東京や横浜に出荷されていたこと、常滑港の改良と、名鉄常滑線の開通によって出荷が飛躍的に延びたことが書かれている。
 たしかに農産物と違って工業製品は換金用商品としての性格が強く出る。秩父の人がセメントばかり使うわけではないし、富山の人が薬ばかり飲むわけではない。
 常滑の人も販売するためだけに陶管と便器を作り続けたのであろう。
 とはいうものの、これらの産地が近くにあるという事実は名古屋、岐阜、豊橋といった周辺都市の下水道には少なからず影響したのではないか、冷やしとろろきしめんを食べながら私はそう結論付けた。
 
 帰りがてら、私はINAXの便器がどこに使われているか調べてみた。常滑便器の影響力がどこまで及んでいるのかを知りたかったからである。INAXミュージアムのトイレには当然同社の最新型が、とこなめ陶の森資料館には旧型のINAマーク便器が、名鉄常滑駅のトイレもINAX、さらに名鉄名古屋駅もINAXであったが、JRの700系新幹線の車内小便器はTOTO製であった。


(参考文献など)
とこなめ陶の森資料館(愛知県常滑市)常滑発展のルーツはこの資料館に秘められている。
INAXライブミュージアム(愛知県常滑市)ドブの調査を目的にするのでなければ、建築陶器や古い窯などがセンスよく展示されたすばらしい博物館である。

水洗トイレの産業史 -20世紀日本の見えざるイノベーション-』名古屋大学出版会 平成20年 トイレの話はとかく雑学ネタ的に取り扱われやすいが、この本は水洗トイレを給水、便器、浄化槽、下水道の産業の複合体として捉えた労作である。
『横浜下水道史』 横浜市下水道局 平成5年(横浜市立鶴見図書館などで閲覧可能)
『横浜水道関係資料集』一八六二~九七 横浜開港資料館 昭和62年(同館で購入・閲覧可能)
『豊橋市史 第四巻』 豊橋市史編集委員会・編 昭和62年
『愛知県下水道史』 (財)愛知水と緑の公社
『日本下水道史 行財政編』 (社)日本下水道協会 昭和61年
『日本下水道史 総集編』 (社)日本下水道協会 平成元年
図説 永井荷風 (ふくろうの本/日本の文化)』 川本三郎 湯川説子 平成17年 河出書房新社

名古屋鉄道 名鉄名古屋駅からタイルの美しい常滑駅までは名鉄常滑線特急で30分。

(行けなかったが見てみたい)
知多半島の鉄道 常滑線開通100年展(知多市歴史民族博物館) 平成24年9月2日まで
いまは空港アクセス、昔は陶管輸送の常滑線。便器は運んでいなかったのか?

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プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

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