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43 夏のドブ川(前編)

  夏のドブ川 

 ドブ川は夏にくさく、冬はあまりにおわない。
 これは誰でも経験上知っている。
 しかしドブ川に流す排水の質は夏も冬もあまり変わらない。
 なぜ排水の質が変わらないのに夏だけくさくなるのかというと、夏は水温が高いので好気性微生物の活動が活発になって酸欠気味になり、酸素を使わない嫌気性細菌が活躍するからであろう。

 嫌気性細菌が酸素を使わずに有機物を分解すると、メタン、硫化水素、メチルメルカプタン、ジメチルサルファイドといったガスが出る。このうちメタン(CH)は無臭だが、その他のガスはイオウ(S)を含むことが多く、イオウを含むガスはくさい。
 なぜイオウを含むガスがくさいのかは私もよく知らないが、イオウの化合物は人間の体に不可欠な反面、関与の仕方を間違えると生命に危険を及ぼすから、そんなイオウ化合物のガスのにおいを不快に感じて避けるという能力は人間の生き残りに一役買っている、ということは言えると思う。
 ともあれ、これらの悪臭ガスを出す嫌気性細菌の活躍が、夏には顕著になり、冬は沈静化する。別な言い方をすると水温が高いとドブ川の有機物は積極的に分解され、低いとあまり分解されないまま海に流れる。

  初夏のドブ川(河口近く) 初夏のドブ川(見やすい画像に差し替えました。H25.8.11)

 ではなぜ、水温が高くなるとなぜ嫌気性細菌や好気性微生物の活動が活発化するのか?
 このことは残念ながら生物学の本ではなかなか触れてくれない。
 水温が高くなりすぎると細菌は死んでしまうということは書いてある。細菌の細胞を構成しているタンパク質は48℃以上に熱すると破壊されてしまうからである。一部の好熱性の細菌以外はこの温度を超えると生きることが難しくなる。
 しかしこれでは、例えばなぜ水温が5℃の水よりも水温25℃の水のほうが細菌が繁殖しやすいのかが分からない。生物学はこの重要で基本的な仕組みを説明することに対して、かなり消極的である。なぜ消極的かというと、おそらくこの問題は生物学の知識だけでは解けないからだと思う。生物学者はそれでいいかもしれないが、私は困る。
 そこで調べると次のようなことが分かった。

  ①生命を維持するには体の器官を動かす必要がある。
  ②器官を動かすにはエネルギーが必要である。
  ③生物は、食べ物という「炭素の化合物」を摂取し、次に酸素を摂取し、次に酸素で食べ物を燃やし(酸化)、エネルギーを得て、アデノシン3リン酸という「すぐにエネルギーに変えることのできる物質」を得るという化学反応を行う。
  ④これを呼吸という。
  ⑤つまり呼吸は化学反応によって成り立っている。
  
  ⑥化学反応は、温度が高いと活発化し、温度が低いと沈静化する。
  ⑦よって、温度が高ければ生物の呼吸活動は活発になる。
  ⑧嫌気性細菌は呼吸でなく発酵を行うことでエネルギーを得ているが、発酵の仕組みも基本的には呼吸と同じである。
  ⑨よって、水温が高くなると細菌の活動が活発になる。

 
 はフランスの化学者ラボアジエが、はスウェーデンの物理化学者アレニウスが、はフランスの細菌学者パストゥールが発見した。このようにこの問題は生物学と化学と物理学にまたがっている(※1,2,3)。
 しかしこれではまだ納得できない。どこが納得できないかというとのところである。なぜ温度が高いと化学反応は活発化するのか。
 
 アレニウスの説によればこうである。
 
  (1)化学反応が起きるには分子と分子が衝突することが必要である。
  (2)温度が高いと分子の運動が活発になる。
  (3)つまり温度が高いと化学反応が起きやすくなる。
 このうちの(2)のところが分からない。なぜ温度が高いと分子の運動が活発になるのか。
 
 この問題を解くには物理学のうちの熱力学という学問を当たればよいであろう。
 しかし困ったことに熱力学の入門書はいつも、「物質Aと物質Cが熱平衡にあり、物質Bと物質Cも熱平衡にあるとき、物質Aと物質Cは熱平衡にある」という理解不能な解説から始まり、次いで難解な微分方程式の解説に突入してしまう。
「なぜ温度が高いと分子の活動が活発になるのか」という観点は熱力学にはない。
「なぜ分子の活動が活発になるのか」というギモンの前に、「なぜ熱力学は温度と分子の活動の関係を説明してくれないのか」というギモンが立ちはだかってきた。
 
 この問題を解決するにはもっとやさしい本、すなわち1ページ目に平気で微分方程式を載せたりしない本を読まなければならない。そこで分かったことをまとめると以下のとおり(※4)。

・「温度」に関する概念は、一般人と熱力学者ではかなりかけ離れている。
・一般人の感覚は、触って温かければ「温度が高い」、冷たければ「温度が低い」である。
・しかし熱力学の世界では、分子の運動が活発な状態を「温度が高い」といい、活発でない状態を「温度が低い」という。

・ここで重要なのは、「分子の運動が活発になった結果として、『温度が高く』なった」のではなく、「分子の運動が活発な状態を、『温度が高い』と言うことにした」という点である。
・逆も真なりで、「温度が高い」から「分子の運動が活発になる」のではなく、「温度が高い」と「分子の運動が活発である」は同じことを言っている。
・つまり温度は分子の運動の活発さを客観的に計測する単位に過ぎない。

・ところで、「温度が高い物体」(分子の運動が活発な物体)が「温度が低い物体」(分子の運動が活発でない物体)に触れると、その活発さが伝わる。それを伝えている何者かのことを「熱」という。
・例えば、100℃のヤカンを37℃の手で触ると熱い。このときヤカンの金属分子の活動は、手のひらの細胞の分子よりも運動が活発である。ヤカンから手のひらに「活発さ」が伝わること、それが「熱」を感じるということである。100℃のヤカンを触わると活発さが伝わりすぎて手のひらが急激な酸化反応を起こす。つまりやけどする。

・このように「温度が高い状態」(=分子の運動が活発な状態)は、熱を介して「温度が低い状態」(=分子の運動が活発でない状態)のものに伝達する。これを熱伝導という。
・つまり水温が高くなる(水分子の運動が活発になる)と、水中の細菌は熱を介して水分子から活発さを伝達してもらえる。よって細菌を構成する分子の化学反応が活発になり、呼吸が活発になる。
 
 
 熱力学には「『分子の運動が活発であること』を『温度が高い』と呼ぶことにする」という前提があり、その前提を踏み台にして応用問題を解く学問であるから、誰も前提自体には触れようとしないだけなのであった。
 私は熱力学がこのような奇想天外な前提で運用されているとは思わなかった。要するに私のギモンは、
「なぜスピードの速い車が目的地に早く着くのかを自動車教習所は教えてくれない!」
と嘆いているのと同じなのであった。恥ずかしい。

 しかしながら、この前提も昔からあったわけではなく、アメリカ出身の物理学者ランフォード伯によって発見されたものに過ぎない。それよりも以前は「温度が高いというのは「熱素」という物質が充満している状態のことである」と思われていたのであるから、私のギモンもまんざら赤っ恥ではない。
 ともあれ、物理学と化学と生物学と4人の科学者の理論によって夏のドブ川はくさくなる。大変勉強になるのである。 (第44章 夏のドブ川(後編)につづく)


<参考にした書籍とウェブサイト>
※1 パストゥール (1967年) (岩波新書) 川喜多愛郎 
パストゥールはワインの発酵からビールの醸造、狂犬病まで多岐にわたる研究成果を残したが、私が一番面白いと思ったのはカイコの病気の研究である。1840年代からフランスではカイコの病気が大流行し、これがトルコ経由でアジア方面に蔓延した結果、日本の生糸が大量にフランスに輸入されるようになる。開国直後の日本でなぜかいきなり製糸業が盛んになったり、官営富岡製糸場(群馬県)の創設にフランス人技師が絡んでいたのは、どうもこういう背景があったようである。本国フランスでは1870年、パストゥールが「蚕の病気に関する研究、その防除と再発の実際的方法」を発表して解決を見るが、日本人は例によって苛烈をきわめた勤勉さで製糸業を発展させ、日本の殖産興業に資していく。

※2 『ラヴォアジェ傳』 エドアール・グリモー・著 江上不二夫・訳 白水社 1941年7月 
徴税官でもあったラヴォアジエはフランス革命後の混乱期、「フランス国民に対する不当徴税」の廉(かど)により断頭台で処刑された。その101年後に亡くなり、国葬されたルイ・パストゥールとはあまりに異なる最期であった。

※3 『反応速度はじめの一歩-化学反応の速度とは何か-』(徳島大学工学部橋本研究室のHP)

※4 理系のためのはじめて学ぶ物理[熱力学] 野田学 ナツメ社 2008年1月 
 ランフォード伯はミュンヘンの兵器工場で大砲製造の監督をしていた時に、砲身を削ると大量の熱が発するのを見て、熱の本性が運動であることを発見した、とある。私も材木を切る時にノコギリが熱くなって困ることがあるが、そのようなことまで想いが至らなかった。これからは材木を切る時もボケっとしないようにしたい。


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プロフィール

大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
・「着席自由権」(パリのカフェのカウンター席とテラス席の料金差と客の滞在時間の関係を現地でしつこく調査)

カテゴリ
「日本のドブ川」カテゴリを廃止して「法律からアプローチする」を新設しました。ドブ川を全国レベルで捉えると、どうしても法律の話メインになるのでこのように変更しました。(H26.11.15)
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