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58 古隅田川

  新河岸川 新河岸川(埼玉県川越市)

 隅田川は埼玉県川越市から流れてくる。
 私はそう思っていた。隅田川を東京湾から上流にたどっていくと、両国、浅草、北千住を経て赤羽付近の岩淵水門で荒川に一旦接した後、新河岸川に名前を変えて和光市、朝霞市を通り、川越に至る。
 川越から先も流れは続くけれどもぐっと細くなって野の川となる。
 江戸幕府の重要都市である川越と江戸を一本で結んでいるというロケーションの良さが買われて、隅田川は水運の動脈として発展した……と思っていたらこれがまるっきり違っていた。

  sumida1 図1 「隅田川=川越源流説」(私の最初のイメージ)
 
 まず、隅田川の流路は昔の荒川の流路である。
 隅田川は岩淵水門で荒川からの分水を受けるが、昔はこれが分水でなく荒川本流であった。したがって新河岸川は隅田川の上流部などでなく、一支流に過ぎない。
 ということは、隅田川という名前は、荒川の江戸市中における愛称にすぎないのであったか……と思っていたらなんとこれも違っていた。

  sumida2 図2 「隅田川=旧荒川下流部説」(私の2番目のイメージ)

 綾瀬川の流路を地図でたどっていたときのことである。
 綾瀬川は埼玉県東部、ポジション的には荒川と中川の間のエリアを流れてくる中規模の河川である。これが東京都足立区の綾瀬まで流れてくると、荒川左岸(=東岸)にぴたっと並行して流れ、さらにその東から合流してくる中川と合流して東京湾に注ぐ。
 
 この綾瀬川の綾瀬付近に向かって尺取虫のように激しく蛇行した支流が東側から接近する。尺取虫は常磐線の綾瀬駅あたりから発しているように見える。水色で記されているところを見ると開渠のようである。名前はと見ると「古隅田川」であった。「ふるすみだがわ」と読む。

  sumida3 図3 綾瀬川と古隅田川の位置関係  

 こういう名前の河川は結構ある。
 古利根川に元荒川、現存はしないが古鬼怒川に古多摩川などというものもある。これらは、現在の同名の河川がかつてたどっていた流路を指していう。
 大きな河川は長い年月の間には流路を変える。この変わり方はかなり突拍子のないもので、例えば現在の多摩川は武蔵野台地の南縁を流れているが、古多摩川は北縁を流れており、現在の相模川は相模湾に注いでいるが、古相模川は東京湾に注いでいた、といった具合である。
 流路が変わると元の広い流れは失われるけれども完全に無くなることはなく、細い流れになって残る。本流でなくなってしまった川なので流量も少なく、したがって洪水を起こす危険もあまりなく、治水工事でまっすぐに直されることもないので曲がりくねっている。古隅田川もこのたぐいの川であろう。
 私はこの川の激しい曲がりくねり具合に興味を覚え、8月のある日綾瀬駅に降り立った。

 綾瀬駅から東にしばらく歩くと妙な曲がり方をした道路があり、遊歩道風になったかと思うと親水せせらぎらしきものが現れる。古隅田川は暗渠化されて上部が親水せせらぎになっている模様である。
 このせせらぎは交差点を越え、住宅地の道路面スレスレに水をたたえながら道端を貫く。水面に糸を垂らしてザリガニを釣るおじさんや子供がいる。糸が絡まったと言ってけんかをしている兄弟がいる。
 
 しばらく歩くと親水せせらぎは終わり、地下から幅10mほどの無骨な古典派ドブ川が顔を出す。水路内には背の高い草がびっしり生えている。この川はクネクネと曲がるというよりは、まっすぐに進むと突如直角に曲がり、しばらくするとまた脈絡もなく直角に曲がるということを繰り返す。

  古隅田川(開渠区間) 古隅田川(親水緑道でない区間)

 この曲がり方は地図上で見ると異様に見えるが、現物を見ると全く違和感を覚えない。川というものは曲がっているほうが自然なのだと思う。護岸もまっ平らでなく、地肌の凸凹がそのまま反映するモルタル・コンクリートの吹付になっている。水質はさほど悪く見えないが、これぞ正調ドブ川である。
 そのようにして1kmほど進み、ポンプ場に吸い込まれる。ポンプ場の先は綾瀬川の高いカミソリ護岸であった。
 古隅田川沿いには由来を解説した説明板がいくつもあり、その内容を要約するとこうであった。
 
 ・昔、利根川はこの流路を流れて隅田川を経て東京湾に注いでいたが、
 ・長年の治水工事で東方へ流路が移り変わるうちに、ここを流れる水は少なくなり、
 ・古隅田川として細い痕跡を留めて今に至る。
 
 なんと。
 この川は隅田川に繋がっていたのであった。名前からすれば容易に推測できそうなことではあるが、古隅田川と現隅田川の間には荒川の広大な河川敷が横たわっているので、感覚的に結びつかなかった。
 
 しかし現在の広大な荒川下流部は、大正時代に洪水対策の放水路として人工的に開削された「荒川放水路」である。このことは永井荷風が『放水路』という随筆に書いている。
 すると、荒川放水路は昔からここにあった隅田川の流路を分断して開削された可能性がある。
 つまり隅田川はもともと、江戸の北東、葛飾方面から東京湾に向かって流れてくる川の名称であり、北西から流れてくる荒川の旧下流部の愛称などではない、ということが言えそうである。
 
 放水路によって分断される前の隅田川がいかなるものであったか。私はそのことに興味を覚え、『放水路』を読み直した。
 荷風は荒川放水路の荒涼とした景色がよほど気に入ったらしく、足繁く通って昭和11年にこの随筆を書いている。ちなみに荷風はその名もずばり『すみだ川』という小説も書いているが、明治42年作のこの小説には浅草あたりの隅田川しか登場してくれないので参考にならない。

 荷風は足立区の千住曙町、駅でいうと東武線の堀切駅付近で荒川放水路から隅田川に向かって水路(原文では「掘割」)が通じているのを発見し、これを「綾瀬川の名残であろう」と推察する。なかなかするどい。
 現在の古隅田川の水は、ポンプ場によって綾瀬川に排水され、綾瀬川はその600m下流で荒川放水路に接近する。この場所に綾瀬川から荒川放水路に連絡する短い水路があり、その400m下流に今度は荒川放水路から隅田川に連絡する荷風推察の水路がある。

  sumida4 図4  綾瀬川~荒川放水路~隅田川連絡水路

 これは確かに、荒川放水路によって分断される前の旧綾瀬川の流路にあたる。しかし荷風がこれを「隅田川の名残であろう」と言わずに、「綾瀬川の名残であろう」としているところが引っかかる。
 この水路の上流には古隅田川が合流していて、下流には隅田川があるのだから、ここを「隅田川の名残り」としてもいいはずなのに、「綾瀬川の名残り」という表現を用いている。

 荷風は浅草や玉ノ井といった下町に足繁く通ったが、それは「隅田川沿いの下町」である。当然隅田川には慣れ親しんでいるわけで、あえてそこに埼玉から足立区、葛飾区に流れ来る綾瀬川の名を持ち出してくることが少々不自然に思える。
 そこで荒川放水路完成前の大正10年の地図を見る。すると当時の地図上では次のような区分で名づけられていたことが分かった。

 ①荒川: 埼玉県から流れてきて、現在岩淵水門になっている付近で新河岸川と合流し、千住曙町で綾瀬川に合流するまで
 ②綾瀬川: 埼玉県から流れてきて、古隅田川を合して荒川放水路予定地を横切り、千住曙町で荒川に合流するまで
 ③隅田川: 千住曙町でが合流して東京湾に至るまで
 ④古隅田川: 地図に名称が載らないほどの細流で不明

  sumida5 図5 大正10年地図での区分

 これを踏まえると、荷風の時代においては、
 ・隅田川とは東京湾から千住曙町までのことであり、
 ・その上流は荒川または綾瀬川であり、
 ・綾瀬川の下流部が隅田川の旧流路であるという認識は一般的でなかった。
 
 ということが言えそうである。
 古隅田川はもともと、利根川→古利根川(現中川の上流部)→中川→亀有付近→古隅田川→小菅付近→綾瀬川→千住曙町付近の水路→現在の隅田川→東京湾という流れていたルートの一部である(※)。
 しかしこのルートは曲がりくねっていて水害が多発していたことから、亀有付近から東京湾へショートカットする川(現在の中川)を開削し、隅田川方面に水が流れないようにした。
 その結果、古隅田川の広い流路は干上がることとなり、この土地を新田開発に用い、残った流路は排水路として用いた、このような変遷を経ている。
 この流路変更が行われたのは江戸時代の享保年間。すると明治の頃の古隅田川は、名も無き水田の排水路として定着していたものと思われる。

  sumida6 図6 江戸時代以前の古隅田川

 こうしてみると『放水路』における「綾瀬川の名残りであろう」という記述は納得がいく。永井荷風は、古隅田川が利根川の旧流路であったことが忘れられ、それに代わって綾瀬川が燦然と隅田川に直通していた時代の作家であり、それを読んでいる私は、その綾瀬川が荒川放水路の東に追いやられて久しい時代にやってきた人間なのであった。
 当時の隅田川はすでに工場排水で汚染され、名物だった蜆は綾瀬産の養殖物に取って代わられていた、と田山花袋の随筆にある。

※ ややこしいことに古隅田川は埼玉県岩槻市にもある。しかしこの川は「大落古利根川」を経て中川に合するから、かつては都内の古隅田川と一連の流れであったものと思われる。古隅田川(埼玉県のHP)

(参考文献)
荷風随筆集 上 日和下駄 (岩波文庫 緑 41-7)
『放水路』を収録。ドブ川の小橋に惹かれる心理を描いた『日和下駄』も収録。

評伝 技師 青山士―その精神の軌跡 万象ニ天意ヲ覚ル者ハ… 高崎哲郎/著 鹿島出版会 平成20年
荒川放水路の建設を指揮したのはこの人である。工事にあたっては、地盤の軟弱さ、宿場町の千住を避ける必要があったこと、工事中に関東大震災があったこと、岩淵水門の設計が難しかったなどの困難があったとある。注目すべきはこの人の人格の高潔さで、自ら渡航してパナマ運河開削工事に携わった後、帰国して内務省に入り、「私はこの世を私が生まれてきたときよりも、より良くして残したい」と言って信濃川や鬼怒川の改修など数々の難工事を指揮し、真面目で芸者が嫌いでおまけに永井荷風と同世代である。荷風より1年早く生まれて4年遅く亡くなっている。いろいろな生き方があると言える。

川の地図辞典 江戸・東京/23区編 補訂版』 菅原健二/著 之潮 

『明治・大正・昭和・平成の4代120余年の歴史が読める 地図で見る東京の変遷(平成版)』 (日本地図センター 平成4年)に収録の大正10年5万分の一地形図 (絶版)


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大石俊六

Author:大石俊六
掲載雑誌
雑誌「『広告|恋する芸術と科学』2014年10月号(特集|Tokyo River Story 東京、川ろうぜ。)『私はどうしてドブ川を覗き込んでしまうのか』

マーガレットプレス 連載『ギモンの細道』

・「ラミネート」
(第10号/ラミネートを発明した人はコンブを手本にしたのではないか、の巻)

・「人馬平安散」
(第9号/「金はなぜ貨幣に使われるのか」を調べていたら四ツ谷駅前のハイフキヤドラッグにたどり着く、の巻)

・「恋とはどんなものかしら」
(第7号/オペラ『フィガロの結婚』で資本主義の発展の秘密にたどり着く、の巻)

・「神社と石橋」
(第6号/神社の前にはなぜ石橋があるのか、の巻)

・「夏帽子製造工場」
(第5号/鮫洲にあった紙帽子工場を調べたら横浜の三渓園にたどり着く、の巻)

・「イベリア半島の睡魔あるいは美しき怠惰」
(第4号/スペイン人はただ暑いからという理由だけで昼寝しているのか、の巻)

・「靴下のゴムはなぜ伸びるのか」
(第3号/靴下のゴムが緩む原因を調べたら長篠の戦にたどり着く、の巻)

・「シュロの奏でるハ短調」
(第2号/シュロの木を植える習慣は南国への憧れのほかにもうひとつ理由がありそうである、の巻)

また、季刊collegio(38,39号)には「水路敷区道扱い」というエッセイを書いています。
・「戸越公園の水路敷」(38号)
・「水路敷と銭湯」(39号)

その他の作品(文芸誌「フノリ」に掲載)
・「海抜の季節風」(渋谷川暗渠区間の高度をしつこく探求)
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